は知ってる筈である。すぐにも姿を現わすべきではなかったか。
胸中の後味わるい思いを振り捨てるように、星野はつと立ち上って、知人から贈られたウイスキーの一瓶を戸棚から取り出し、窓際で飲みはじめた。
上海の空はいつも濁っている。それが今暮れかけた陽光を孕んで、へんに盲目的な没表情をしていた。キャセイ・ホテルの五階の星野の室からは、隣りの建物に切り取られた残りの空が、布片のように見え、反響のないその布片へ向って、雑多な物音の入り交った街路の喧騒が立ち昇っていた。
星野は佗びしい気持で、食慾も起らず、ただウイスキーを飲んだ。耳はひとりでに、大気を満してる騒音に傾けられていた。得体のはっきりした東京の騒音と異ってることが、旅情を深めた。旅情のうちには、蘇州の若い女の清麗な面影も浮んだ。それが、ふと、対蹠的な機縁で、或る時の秦啓源の姿をも思い出させた。
秦啓源が東京にいる時、赤坂の芸妓の梅子と深い仲だったのは、星野たち一同には周知のことだった。梅子はもう二十六七歳の、芸者としては年増の方で、ただなよなよとしただけの女だった。どこに惚れあったのか、それは当事者以外には分らぬことだが、二人は深
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