風で、中に鋭利な観察を含んでいた。抒情風の衣をまとった叙事詩、それが本領らしかった。勿論彼の詩才を認めそれを高く評価したのは、東京の文学者のうちの一部にすぎなかった。その一部にとっては、彼はまた時折、飲み仲間でもあった。酒には実に強かった。いつも金は多く所持していた。
 太平洋戦争が始まって半年ばかりの後、彼はふいに支那へ帰った。失恋の結果だという風説もある。大使館から帰還させられたのだという風説もある。公金を費消した疑いがあるという風説もある。重慶側の知識層に知人が多いということは、今では一部に認められている。
 彼ははじめ北京に住み、それから上海に移った。
 この秦啓源を、星野は文学に復帰させたかったのである。彼の詩は中国文学に一つの生気を齎すであろうと、そう考えた。そして彼を文化活動の表面へ誘致したかった。彼のような能才を市井に潜没させておくのは、惜しみても余りあることだ。星野は、一種の在野文化使節としての使命から、また文学者同士の友情から、彼に逢いたかった。
 その望みも果さずに、星野はもう、上海を立ち去ろうとしているのだ。星野が此地に来ていることは、新聞の記事によって、秦啓源
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