あなた方の実感の中にはなく、あるのは支那というものだけでしょう。」
「違う。」と星野は叫んだ。
 星野に言わすれば、支那というものだけを実感しているのは、日本の旧時代層であって、新時代層は中華民国というものを実感している。その実感から、中国を近代的統一国家へと護り育てようとする誠意も生れてくる。この誠意は信頼して貰わなければならないのだ。
 然し秦に言わすれば、その近代的統一国家の概念と支那という概念との間には、日本人の頭脳の中で喰い違いがある。だから、例えば日支文化の交流提携ということについても、旧支那文化と新日本文化との交流という、喰い違った面に於て考えられる弊がありはすまいか。
 然し星野に言わすれば日本には本質的な新旧間の断層はなかった。
 然し秦に言わすれば、支那にもそういう本質的な断層はない筈だが、断層があるように見える現象を心から泣いたのは、あの偉大な作家魯迅だった。
 然し星野に言わすれば、万国公墓の魯迅の墓に肖像の焼き付けを嵌め込んだ、あの俗悪さに、魯迅は一層泣くだろう。
 話はこのような筋途を辿っていったが、秦は次第に憂鬱になってゆき、随って言葉も少くなっていった。
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