く言い交していたらしい。正式に結婚するつもりだとも秦啓源は公言していた。それが、どうした事情か、梅子は他にも旦那を持つと共に、暫く座敷を休んだ。
その頃のこと、秦と星野と、やはり文学者仲間の田中と、三人で、或る夕方、虎ノ門の近くを歩いていると、梅子に行きあった。
夕方といっても、残照の澄んだ、よく見通しのきく一刻だった。梅子は一人で、街路の向う側を歩いてきた。それを秦は真先に見付けた。ひきつめ加減の洋髪で、着物の沈んだ臙脂色の縞柄に、帯の牡丹の花の金色が浮きだしている。秦は何とも知れぬ奇声をあげた。そして三四歩駈けだした。とたんに、疾走してきた自動車が前を掠め去った。秦は車道の真中に佇んだ。
向うの人道では、梅子が一足ふみ止った。顔色をかえて見つめた。そして一瞬間、軽くしかししとやかにお辞儀をして、あのなよなよとした彼女が、小股の足並も乱さず歩み去ってしまった。
この出会の情景は、星野には極めて当り前のことに思われたが、秦啓源には奇妙な印象を与えたらしい。彼は暫く口を利かなかった。よろめくような歩き方だった。そしてその夜、銀座裏のバーで酔っぱらいながら、異民族間の距ては如何ともしがたいなどと、梅子のことについてではなく、一般論として言いだした。それから更に、日本人は全体として中国人を蔑視してるとまで言った。
敏感な星野は、話を梅子のことに引き戻しながら、一般論として弁護した。――あの時の彼女はそれならば、どうすればよかったのか。あの態度は、私情を芸妓としての教養で包みこんだ、立派なものではなかったか。あの一見素気ないような態度は決して秦を他国人として蔑視したものではない。かりに秦を日本人だったとして、同じ場合に臨んだものとしても、彼女の態度には聊かも変りはなかったろう。日本の各社会層にはその社会層特有の訓練があるもので、その訓練が身について教養となる。このことを観取しなければ日本人の美点は分らない……。
論旨が、秦啓源に理解されたかどうかは、星野にも分らなかった。なにしろ、酔った上でのことだ。然しながら、思い出すと星野は苦々しかった。ばかばかしいことを論じたという気がした。二人の愛情のことだけを尋ねて、慰めてやればよかったのだ。
そのことをも、星野はもう殆んど忘れていた。ただあの街頭の一瞬の情景だけが、後になるほどへんに生々しく浮んでくるのだった。
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