のかい。」
「うむ、丁度いい機会のようだ。引込むといっても、無錫は上海から急行で二時間のところだ。時々出て来るよ。ただ、生活は……仕事は、全然新らしい方面への出発となるだろう。」
彼は窓から外に眼をやり、暮れかけた黄浦江のどんよりした水面を眺めた。――私たちの食卓は窓際にあったので、江上の小舟までも見えた。
「そのうちに、無錫附近を案内するよ。あの辺は、こんな濁った水ばかりでなく、清澄な小川が多い。町から少し離るれば、有名な梅園があるし、太湖の眺望も楽しめる。農村は君には興味がないとしても、無錫の町それ自体は、中国殆んど唯一の自力興起工業都市で、生糸や紡績や製粉の工場が軒を並べている。なにかしら清明で溌剌としているよ。」
「農業を言い落すのはおかしいね。」と私は微笑した。
「言うまでもないことだからさ、米や麦は最上等のものが穫れる。然しそのようなことより、無錫の軽工業地帯は、なお農精神を失っていないのが最も注目すべき点だ。農精神を失わない工業というものを、僕は考えているよ。そこに本当の生産の喜びが現代にも生きてくる……。」
こういう事柄になると、私はいつも黙って、謹聴することにして
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