を下したのではありません。」
「それも承知しているが……。」
 洪は立ち上って、紙包を戸棚にのせた。
 ふしぎなことに、それらの対話と受け流しとが、至って平静に為されてしまったのである。それが殊に秦の予期に反した。彼は額にかるく汗ばみ、疲労を覚えた。
 用件は済んだ。秦は立ち上って辞去した。洪は階段の上まで見送ってきた。
 最初に案内してくれた男が出て来て、秦に自動車まで付き添ってきた。
 自動車の中で、秦は長い間沈黙していた。陳振東もそばで沈黙を守っていた。二十五歳のこの強健な鋭敏な男は、なにか忌々しそうに眉根を寄せていた。

 パレスの上階の食堂で軽く夕食をとりながら、秦は呟いた。
「何か大事なことを、洪正敏に言い忘れたような気がするんだが……。」
「いや、それはもうすべて済んだ。この方面のことは簡単率直だから。」
 そして彼は突然笑いだした。
「おかしいだろう。君から見たら、僕は道化役者ようだ。或る時は夢想詩人だし、或る時は半ば狂気な女をもてあつかってる色男だし、或る時はまた仁侠の徒だからね。それも上海の仕業だ。もうこんな生活にも倦き倦きしたよ。」
「いよいよ、無錫の田舎に引込む
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