いた。彼の思想……構想を自由に発展さしておきたかったのである。だが、その食堂で、私は他のことに気が惹かれてもいた。
 二卓ほど距てた斜め横に、どうも見覚えのあるような中年の男がいた。茶色の背広に蝶ネクタイをし、髪に油をぬっている。食卓にはビール瓶が立っていた。その男が、しきりに私たちの方に目をつけていた。秦は気付いているのかいないのか分らないが、なんだかその男の方面から顔をそ向けてる様子だった。
 果してその男は、私たちが食事をすまして珈琲を飲みかけると、静に立ってきて秦に挨拶をした。秦は露骨に冷淡な態度を示した。然し相手はあくまで慇懃な態度で話しかけ、にこやかな微笑を浮かべ続けていた。私には支那語が分らないので話の内容は不明だったが、二人の外見の対照は面白かった。秦はへんに伊達好みな服で、不愛想に取り澄しているし、相手は服装から物腰から言葉付きまで、社交馴れた紳士らしい趣きがあり、顔には微笑を絶やさないのだ。
 秦は私の方に眼配せをした。私は珈琲を飲み干したが、秦は半ば飲み残したまま立ち上った。
 廊下に出ると私は尋ねた。
「何だい、あの男は。」
「知ってるだろう、周釣さ。」
 周釣
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