ムさえもあった。
 上海には多くの豪壮な建築があるが、どれにも地下室はない――これは秦啓源の言葉であって、地理的条件から来る実状ではあるが、また比喩とも受け取れる。嘗てはその滞貨が世界の都市中でニューヨークに匹敵すると言われた上海も、随分と貧寒にはなったけれど、まだまだ莫大なものを埋蔵している。而もすべてに於て商賈の市場で、金力の前には地下室がないのだ。但し、国際的性格のこの都市は、他国人に対しては慇懃であっても、同国人同士の間では、殊に※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]《パン》関係の間では、一種の繩張りとか仁義とかが多少とも存在している。秦啓源は故意に、張浩をしてそれをすべて踏みにじらせた。深夜、静安寺路の街頭で、張浩が狙撃されて落命したのも、実はそれが一つの原因だったのである。
 この事件について、秦啓源は巧みに自分の名前を隠蔽したし、また警察側の探査を緩和せしめるような態度を取った。事件は闇に葬られた――上海では珍らしからぬことだ。然し、秦啓源は自分の方の不用意を認めたし、またあの夜、東京での旧知星野武夫と久しぶりに飲み歩いたにせよ、自分一個の感慨に耽りすぎた不覚を認めた。
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