に来てくれないか、というのだ。
元気な声だった。薄曇りの空が晴れたような安心を私は覚えた。
彼はパレス・ホテルに一室を取っていて、大西路の家とまあ半々の生活をしていた。謂わば大西路の方は私邸であり隠棲であり、パレスの方は公館であり事務所であった。
私のところからパレスまでは近い。私が行くと、彼は電話で知らせた通り、階下の広間でお茶を飲んでいた。陳振東が同卓にいた。用談を済ましたところらしかった。
彼はパレスにいる時としては珍らしく、支那服を着こんでいた。顔には清新な色合があった。平素、彼の頬の皮膚にはなんだか血色のうすい荒みが漂っていて、一種の心身の消耗を思わせるものがあったが、それが冷水で洗い落されたような工合であり、澄んだ深い眼差しと秀でた鼻筋とがしっとりと落着いていた。その顔を私は久しぶりに美しいと観た。それから久しぶりの彼の支那服の襟元の刺繍を眺めた。
「洪正敏に逢って来たところだ。」と彼は言った。
私は黙ってうなずいた。他に返事のしようもなかったのだ。――洪正敏というのは、南市地区に潜居してる青※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]《チンパン》の大頭目である。そ
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