れからはあの霊界のことだ。あまり概略的な言い方だけれど、神秘を失うことは精神を失うことだと僕は思っている。キリスト教も、マホメット教も、予言者が出現しなくなってからは堕落した。仏教も、真如探求から衆生済度へ転向してから低俗になった。日本のあのみそぎ修業は――これは君の方がよく知ってる筈だが――神の世界を持ち続けてる間しか、生きた生命はなかろう。神秘、奇蹟、霊界……現代人の知性では理解出来難い何物か、それを失う時には、人間の高い精神も滅びてしまう。と言って、僕は霊界の存在を信ずるのではない。それは信じないが、然し、右の理論だけは確信している。そしてこれがまた東洋の信念なのだ。」
 こうなってくると、彼は信念の上に現実を構築して、言葉は広汎な天空を翔けめぐる。丹永のことなどは忘れられてしまった。が然し、神秘の論を私と暫く闘わした後に、彼はふと丹永のことを思い出したのである。
「ちょっと、見舞に寄ってくれ。あれは喜ぶよ。饅頭を御馳走しよう。」
 丹永と饅頭との間に、私は眼をしばたたいた。然し実際のところ、丹永は軽い脳貧血で寝ている筈だったし、また楊さん手製の饅頭は彼女の自慢でもあった。
 大西路の秦の住居は、アルカヂアからさほど遠くない。三輪車で行けば間もなくだ。
 客間は至って簡素なもので、目を惹く華美なものを殊更に避け、重厚な器具類のみが恐らくは必要以上に備えてある。楊さんは煙草に火をつけてくれ、茶を運んでくれたが、やがて渋い色の三つの器に莫大な量を盛りあげた饅頭が出てきた。
「こんなに沢山、誰が食うのかね。」と私は言った。
「これがいつもの癖なんだ。」と秦は笑った。
 楊州名物の饅頭で、豚肉と蟹と※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]との三種になっている。丹永はまたふしぎにこれが好きで、他に食事をとらなくてもこれだけで過す日もあるとかいう。自慢ほどあって味もよく舌ざわりもよい。ウォートカを飲みすぎたあと、この甘っぽい饅頭は殊にうまかった。それは腹をふくらすと共に、アルコール分を落着かせ、話題を少くさした。
 そのところへ、意外にも、柳丹永が出て来たのである。私のつもりでは、饅頭が主で、見舞は従であり、しかも、どうせ丹永の室に行けるわけではなく、見舞の言葉だけを置いて帰るつもりだった。それが、先方から出て来たのだ。
 寝間着の上にはおったらしい紫ビロードのガウン姿、それでいて細そりと見え、唐草地模様の桃色のネッカチーフを、黒髪の上からすっぽりと※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]へ結んでいる。その絹布からのぞいてる彼女の顔を、私は思わず視つめた。血の気が引いたような白い薄い皮膚の下、緊張した肉に殆んど何等の動きも表情もない。生理的な営みが瞬時に停止して而もなお生きているとするならば、恐らくこういう顔になるだろう。そのなかで、ごく緩やかな動きしかなさない黒目の一点にぽつりと光を浮べ、薄い唇のはじに犬歯の先端が白くほの見えている。
 私は彼女の顔を見つめたまま立ち上って、軽く一揖した。彼女も軽く身を屈めた。――私は支那語が話せないし、彼女は日本語が話せないのだ。
 秦と彼女とはなにか短い言葉を交わした。彼女は椅子に身をおろして、先の尖った細い指に※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をもたせた。
 秦が何か言うと、彼女は私の方を見てうなずいてみせ、それから二人の間にまた短い言葉が連続した。秦の調子にはやさしいいたわりがあり、彼女の調子はへんに機械的だと、私には感ぜられた。
 然しそれよりも、随分と強烈な芳香が、さきほどから私の鼻をついてきた。香水の香りに何かの香りが交ったもので、私はその方にも気を取られた。――後で分ったことだが、彼女は軽い眩暈におそわれてベッドに就く時、いつも、コティーの香水をやたらにふりまかせ、白檀香をやたらに焚かせて、その緩急混合の芳香の中に浸るのだった。秦はこのことからして、彼女の所謂脳貧血は、病的症状ではなくて神経的現象だと、簡単に解決していたのである。
 彼女の顔の肉は、私が居る間じゅう一度もほぐれなかった。彼女から来る芳香も薄らがなかった。
 やがて秦は彼女を連れだし、暫く待たせたあとで、熱い茶を運んでくる楊さんと共に戻って来たが、私は間もなく辞し去った。私の宿ブロードウェー・マンションまではかなり遠く、自動車で送って貰った。
 自動車のなかで私は、今見たばかりの夢のような生々しさで、丹永の顔を見ていたし、その香料を嗅いでいた。

 そうした彼女の、精神的というよりも寧ろ神経的な存在が、時として霊界の言葉を伝えたのである。
 或る時彼女は、友の母親の病気見舞に行き、友と二人で客間にいる時、ふとした沈黙のさなかに、天井を仰いで大声で言った。
「死臭あり、死臭あり。」
 彼女はは
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