っと我に返って、顔色を変えた。――いつも自分が無意識に発した言葉を意識しているのだ。――友も顔色を変えた。それから二人で手を執りあって泣いた。
一週間後に、友の母親は死んだ。
この種の例はいくらもある。――的中しなかった言葉は、解釈を誤ったのか、或は忘れられてしまったのであろう。
張浩が狙撃された時は、少しく異っていた。
その晩、夕食後、彼女はなんとなく淋しく、久しぶりに祈祷をした。居室の片隅に、亡き母の形見ともいえる古い小さな仏像が、真鍮と赤銅との少しの金具を鏤めた貧しい厨子に納めて、安置してある。その前に彼女は赤い小蝋燭をともし、跪坐して合掌した。
祈祷の文句は折によって異る。仏教の経典の一節のこともあれば、道教の教義の一節のこともある。それを口中で誦しているうちに、身体は羽毛の如く軽やかになり、やがて意識は宙空に散逸する。――だが、この時、合掌した両手が重く感ぜられてきた。重苦しく下へ下へと引きさげられるのだ。いけないな、と彼女は意識した。だが両手は、いつものように自然に美しく上向しないで、重く下へとさがってゆく……。
彼女は祈祷をやめ、平常意識に戻って、ほっと溜息をついた。額に汗がにじんでいた。――何か災があるに違いなかった。
この予見された災のことを、彼女は、秦の不在中に来あわしていた陳振東に話した。陳は笑って取り合わなかった。然しその深夜、張浩が狙撃されたのである。
この時の、全く些細な偶然――災の予兆を丹永が陳振東に話したということが、大きな結果を招いた。
陳振東は霊界のことなどは全然信じない逞ましい精神を持っている。この精神は逞ましいと共に溌剌として健全だ。そして災害が予見されたということが、加害者に対する彼の激怒を煽り立てた。加害者が仲毅生だと分った時、彼の激怒は更に倍加した。
仲毅生は嘗て、秦啓源を訪れてきたことがある。二度目に来た時は柳丹永にもちょっと逢った。五分か十分かの短い訪問で、別に用向もなかったらしいが、張浩に逢いたがってる旨をほのめかした。彼奴、商取引の仲間にはいりたがってるようだ、と秦は笑った。――この嘗ての訪問を陳振東は思い浮べた。それが丹永の予見と結びついて、なにか脅迫的なものを彼に感じさせもしたらしい。
結果は奇怪な復讐となって現われた。――茲に前以て言っておこう。陳振東は二人の仲間を引き連れて、城内地区の裏町の薄暗がりで仲毅生を襲撃し、その左の耳を根本から削ぎ取ってしまった。
この陳振東の心理の動きや仲毅生襲撃事件は、小説的に叙述すれば大変面白い物語になる。然しそれはこの物語の主題と大して関係ないから止めよう。
さて柳丹永のことだが、彼女は午後の陽ざしを浴びて、中庭へ出る石段の上に佇み、数株の落葉樹の植込みを無心に眺めているうち、突然大声で言った。
「血の色見ゆ、血の色見ゆ。」
その言葉を彼女は意識して、恐怖に打たれ、室に戻ろうと振向いた。そこに、楊さんが、驚いて目を見張り口をあけて立っていた。
その腕に丹永はすがりついた。身体がひどく違和の感じだった。
楊さんに援けられてベッドに就いた。
楊さんは張浩の時の予兆も知っていただけに、少しく慌てたのである。私もそれを聞いて、ちと肌寒い思いをした。
然し、今になってみると、この時の丹永の霊感は何を指示するものだったか明かでない。仲毅生が耳を削がれたのはその前日のことであったし、また、その翌々日には彼女自身が喀血した。
夕景にはまだ少し間がある頃、秦啓源から私のところへ電話がかかってきた。――一緒に飯でも食べたいからこちらに来てくれないか、というのだ。
元気な声だった。薄曇りの空が晴れたような安心を私は覚えた。
彼はパレス・ホテルに一室を取っていて、大西路の家とまあ半々の生活をしていた。謂わば大西路の方は私邸であり隠棲であり、パレスの方は公館であり事務所であった。
私のところからパレスまでは近い。私が行くと、彼は電話で知らせた通り、階下の広間でお茶を飲んでいた。陳振東が同卓にいた。用談を済ましたところらしかった。
彼はパレスにいる時としては珍らしく、支那服を着こんでいた。顔には清新な色合があった。平素、彼の頬の皮膚にはなんだか血色のうすい荒みが漂っていて、一種の心身の消耗を思わせるものがあったが、それが冷水で洗い落されたような工合であり、澄んだ深い眼差しと秀でた鼻筋とがしっとりと落着いていた。その顔を私は久しぶりに美しいと観た。それから久しぶりの彼の支那服の襟元の刺繍を眺めた。
「洪正敏に逢って来たところだ。」と彼は言った。
私は黙ってうなずいた。他に返事のしようもなかったのだ。――洪正敏というのは、南市地区に潜居してる青※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]《チンパン》の大頭目である。そ
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