んは探るように私の顔を見ていたが、俄に、途方にくれた様子で頭を振った。そして呟いた。
「奥さんが言われました、血の色見ゆ、血の色見ゆ……。」
私が呆然としていると、楊さんはまた繰り返した。
「血の色見ゆ。」
漸く私にも分った。聞きただしてみると、前日の午後、その言葉が丹永を通じて現出したのだ。しかも秦の行先は不明である。楊さんはひどく困惑の眼付をした。
「心配しなくともよかろう。」と私は言った。「たいてい、今晩は秦君に逢えるだろうから、逢ったら、そのことを伝えておくよ。」
楊さんは両手を胸もとに握りあわせ、くどく念を押し、深く辞儀して、帰っていった。
私は松崎の室に戻ったが、大きな薄曇りめいた気懸りがあって、碁にも興がなく、やがて外に出で、蘇州河にぎっしりもやってる小舟を暫く眺め、それからホテルの室に帰って、ベッドの上に身を投げだした。
ところで、この柳丹永のことだが、それを詳しく書くとすれば長い一篇の物語ともなろうから、茲には、この物語に関係ある部分だけを摘記するに止めよう。
彼女は幼い頃から、母に連れられて、鎮江の金山寺にしばしば詣で、其後、参禅の修業を積んだ。それから二十歳すぎた頃、江北のさる道教寺院で、祈祷の秘義を修め、霊界との交渉を得るに至った。数年を経て、上海の市井に隠遁している高僧玄元禅師の導きを受け、霊界との交渉は一種霊感の域へ引戻されると同時にまた深められた。それだけの経歴ではあるが、祈念する彼女の魂は実に純美であると誰しも認めたそうである。現代の言葉に飜訳すれば、或は精神統一とか或は自己催眠とか或は無我意識への参入とかに、彼女はすぐれた素質を持っていたらしい。祈祷のうちに、或は祈念をこらすうちに、時としては、ふとした忘我の瞬間に、霊界と感応して、大声にその言葉を伝える。しかもその言葉を自分で記憶している。だから彼女は、所謂シャーマンではなく、他界の精霊を意識的に信仰してるのではなく、単に霊気的感応を持つだけであり、随って、神託とか予言とか吉凶判断とかは為さない。
そういう彼女ではあるが、その生活はおよそ右のこととは縁遠い。上海にあっては彼女は、カフェーの女給をしていたことがあり、また、或るフランス人に支那語を教えていたことがあり、また、暫くダンサーをしていたこともある。このダンサー時代に秦啓源は彼女を見出し、大西路の自分の住宅の一翼に住ませた。彼女に身寄りの者はなく、楊さんだけがなにかの縁故者だという。彼女は金銭には甚だ恬淡で、装身具ははでずきで、また種々の化粧品をやたらに買い揃えて喜ぶ癖があった。
このように彼女の両面だけを書き並べると、その実体は怪しくなる。だが、或る夜、私は驚かされた。
その晩私は秦啓源と二人きり、アルカヂアで、踊り子なしのキャバレー・バンドを聞きながら、豊富なザクースカを味い爽醇なウォートカに酔った。そしてどういう話題の廻り合せか、秦は告白的な低声で丹永のことを語っていた。
「……氷炭相容れず、冷熱並び存しない筈だが、あれのうちには、それが二つとも、りっぱに存在し得るのだ。あれの情熱は、或る時は熱烈に燃えたつが、或る時は無関心以上に冷淡になる。何が契機でそうなるのか、僕には見当もつかない。藁火のように燃えたつかと思えば、水をかけた灰のように冷たくなる。何でそうなるのか分らないだけに、こちらではまごつかされる。女の感情……情熱というものは、一体に長続きしないものであることは、僕も知っているが、あれのは極端だ。何かこう全身的に、全身の機能的に、火と氷との間を振子のように移り動いてゆく。それは僕の理解を超えたものだ。」
「それほど大袈裟なものでもなかろう。」と私は言ってみた。
秦は素直に首を傾げた。
「僕が誇張して感じてるのかも知れない。けれど、じっと見ていると、心配にもなってくる。熱冷の間を往き来しているうちに、あれの感情……情熱は、何かこう生理的に、一挙に滅びてしまう、ぷつりと切れてしまう、そんな懸念が持たれないでもない。」
「病気ではないのかい。」
「さあ、医者にかかることを嫌うから、はっきりしないが、熱が出るらしい。肺を病んでるようでもあるし、心臓が弱ってるようでもあるし、神経が疲れてるようでもあるし……どうもよく分らん。」
だが、秦の関心がそんなところにあるのでないことは、私にも分った。彼にとって私は、どんなことでも打明け易い相手ではあったとしても、その打明けるべき肝腎なことがまだ不分明だったのだとも言えよう。
暫く沈黙の後に、私は言った。
「まあ、君の愛情で、彼女をやさしく包みこんでしまうんだね。」
秦は眼を挙げて、じっと宙を見つめた。
「そいつが問題なんだ。もともと、僕の愛情も……不純だったかも知れない。はじめはあれの一風変ったところに心が惹かれ、そ
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