とを思い出し、蘇州の模様絹を買って与えた。彼女はいたく喜んで、娘のために裁縫をしているのである。
「こういう女を、いや、こういう人情を、ほかに上海で見かけられますか。」と秦は尋ねた。
 洪は頭を振った。
「上海がそういう人情を失ったのは、農精神を全然喪失したからです。」
 だから上海には、平時でも十万から二十万に及ぶ苦力と乞食がうようよしていたし、冬期には月に二三千人の凍餓死者を出したことも珍らしくない。彼等をすべて農村へ帰農させるべきだ。米麦の耕作の合間には、棉を栽培してもよかろうし、豚を飼育してもよかろう。もしも棉栽培が全耕地の五パーセントに達すれば、その収穫は全東亜を優に賄えるし、豚の頸毛は生糸よりも優秀な利用価値がある。好んで乞食や苦力の生活に執着する必要はないのだ。
「上海人種は、そういうことをすべて忘れています。」と秦は言った。
「左様。」と洪は同意した。「上海は、あなたが説かれるような農の意識を失っている。然し国家存立には、他の精神も必要だろうからな。」
「いや、私が言うのは、農精神を基調とした新たな構想の国民組織を行なわなければ、中国は国家として存立し得ないということです。嘗ての新生活運動だの、近頃の新国民運動だの、保甲組織だの、そういう浅薄なものでは駄目だということです。」
 洪はじっと秦を見つめた。
「つまり、あなたはどこか農村へ出て行くつもりで、それで、この私に何か後事を託そうとでも……。」
「後事を……いや、ちょっと始末をつけたいのです。」
 秦は洪の眼を見返した。洪の眼はそれでも、静かな温容を湛えて、秦を見戍っていた。
 沈黙が続いた。会談中に何回か運ばれた熱い茶が、また同じ男の手で運ばれてきた。その男が出て行った時、秦は懐をさぐって、小さな紙包を取り出した。
「これを、持主に返して貰いたいのです。」
 小卓の上に置かれた紙包を、洪はじろりと見やった。
「拝見しても宜しいか。」
「どうぞ。」
 包み紙の下の白紙には、仲毅生の名前が誌されていた。その中は油紙で、根本から切り取られた人間の耳朶が包んであった。もう黒ずんだ血をにじませて少しく干乾びていた。
 洪はそれをまた包み直して言った。
「彼奴のことは承知していた。それにしても、面倒なことをなされたものだ。」
「面倒とは……。」
「後の始末だ。一挙にやっつけた方が簡単だったろう。」
「僕が手
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