思っていた。」と洪は笑顔で言った。
七十歳に近い洪は、まだ矍鑠たるもので、肩には肉の厚みも見え、髪は短く刈り、顔色は浅黒く、太い眉と細めの眼とが特徴である。そしてその顔にも態度にも、善良そうないたわりの気味が現われてるのを、秦は意外にかつ不思議に感じた。なにか予期に反したのである。
この予期外れが、対話をも予期外れのものとなした。秦は腹蔵なく語り出したのである。
彼は上海の内臓を探るつもりで金属の商取引にも手を出したが、多くの豪壮な建築に地下室が殆んど無いことから、他のことを発見した。泥土地帯の上に構築されたこの都市は、地下三尺のところはもう水である。豪雨があれば、目貫の街路にも出水三尺に及ぶ。四百万から五百万の人口がその水上に住んでいるのだ。これらの人々が作り出す汚水はどう処置されているか。浄化所は今のところ三ヶ所あって、通風、撹拌、消毒、沈澱などの工作の後、河中に放出されているが、その浄化所へ汚水を導くポンプには、莫大な電力が消費される。然しこの汚水浄化系統の地区は全市から見れば僅少なもので、大部分の地区、殊に支那人居住地区では、汚水は馬桶《モードン》から舟に移され、舟で田舎へ運ばれ、肥料として売却されている。この売上代金は更に莫大だ。嘗ての工部局時代、右の電力費用は年に約百万元だったし、汚水売却の収入は年に約千万元だった。
「この事実をどう見られますか。」と秦は言った。
「その御質問の意味は……。」と洪は問い返した。
「上海が農村を愚弄してることについて腹が立つのです。上海が真の近代都市ならば、汚水浄化に何百倍の電力を消費しても構いませんが、真の中国の都市ならば、余った汚水は極めて安価にあるいは無償で農村に配布すべきでしょう。」
洪は真面目にうなずいて、秦の顔をじっと眺めた。
「私は上海の人間も嫌になりました。」と秦は言った。
そして彼は、彼の家にいる梅安の話をした。田舎から来てるこの女中は、その郷里に小さな女の子を一人持っていた。秦は彼女に、日本の知人から貰った友禅金巾の反物を与えた。年末近くのことだった。彼女はその金巾を、夜更けまで裁縫し、最後には徹夜までした。楊さんからそのことを聞いて、彼女に問いただすと、彼女は田舎の娘のために、正月の晴衣を縫ったのだ。正月のまにあいますようにというのが、彼女の一心だった。――今年ももう年末近くで、秦は梅安のこ
前へ
次へ
全16ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング