の頃、青※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]の頭目としては朱鵬がいて、洪正敏は全く隠退し、表向きに顔を出すことはなかったが、然しその潜勢力は朱鵬を凌ぐものがあると言われていた。
 私が珈琲をすすってる間に、秦は陳振東と数語を交わし、陳振東は私の方に鄭重な辞儀をして、外へ出て行った。
「凡て済んだよ。」と秦は晴れやかに言った。
 私は洪正敏との面会の模様を聞きたかった。秦は何一つ隠そうとしなかった。打明けて話すのが楽しそうでもあった。――珈琲をすすり、煙草をふかし、それから、ごたごた散らかってる室に行って、支那服を背広と着かえ、わざと時間をつぶし、少し後れめに上階の食堂へ行き、食事をしたのだが、その間に彼は断片的に話した。
 その断片的なものを、茲に綴り合してみよう。
 はじめ、洪正敏が逢ってくれるかどうかが危ぶまれた。然し秦は是非とも彼に面会する必要を感じた。朱鵬などは問題でなく、洪正敏でなければいけなかった。
「僕の見解は正しかった。りっぱな人物だ。」と秦は言った。
 彼は使をやって面会を求めた。明日の午後二時に……との応諾だった。
 彼は支那服をまとい、自動車に乗り、陳振東を連れ、部下の一青年に道案内されて行った。
 南市の純粋な支那街の一角に自動車を留めると、そこの路地の入口に、一人の男が待ち受けていた。秦は陳振東と案内者とを自動車に残して、男に導かれた。
 路地をはいり、幾つもの門をくぐり、階段を上って、思ったより狭い室に導かれた。その間、案内の男は彼の右手に寄り添い、幾度か彼の右脇に触れたらしかった。彼は内心で苦笑して、左脇の懐をそっと押えた。そこに、小さな拳銃をひそめていたのである。
「万一の用心だ。」と秦は言った。「仲毅生のことも先方に知れてる筈だったからね。」
 室の中には、壁面に多くの書画の掛物、机上に陶製や銅製の古い花瓶、窓際に多くの椅子……そして片隅の机上に、写真帳が堆く積まれていたが、それは各地の風光の写真らしく見えた。
 案内の男は他の男と代り、秦は中央の小卓の前の榻に腰をおろした。煙草と茶とが出た。――面会中それだけのもてなしだった。
 洪正敏が出て来ると、男は秦啓源を改めて披露した。洪はうなずいて、秦を見た。秦は鄭重に挨拶した。洪は男を室から去らして、小卓ごしに秦と向い合って席についた。
「あなたのことは知っていた。私からも逢いたく
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