を下したのではありません。」
「それも承知しているが……。」
 洪は立ち上って、紙包を戸棚にのせた。
 ふしぎなことに、それらの対話と受け流しとが、至って平静に為されてしまったのである。それが殊に秦の予期に反した。彼は額にかるく汗ばみ、疲労を覚えた。
 用件は済んだ。秦は立ち上って辞去した。洪は階段の上まで見送ってきた。
 最初に案内してくれた男が出て来て、秦に自動車まで付き添ってきた。
 自動車の中で、秦は長い間沈黙していた。陳振東もそばで沈黙を守っていた。二十五歳のこの強健な鋭敏な男は、なにか忌々しそうに眉根を寄せていた。

 パレスの上階の食堂で軽く夕食をとりながら、秦は呟いた。
「何か大事なことを、洪正敏に言い忘れたような気がするんだが……。」
「いや、それはもうすべて済んだ。この方面のことは簡単率直だから。」
 そして彼は突然笑いだした。
「おかしいだろう。君から見たら、僕は道化役者ようだ。或る時は夢想詩人だし、或る時は半ば狂気な女をもてあつかってる色男だし、或る時はまた仁侠の徒だからね。それも上海の仕業だ。もうこんな生活にも倦き倦きしたよ。」
「いよいよ、無錫の田舎に引込むのかい。」
「うむ、丁度いい機会のようだ。引込むといっても、無錫は上海から急行で二時間のところだ。時々出て来るよ。ただ、生活は……仕事は、全然新らしい方面への出発となるだろう。」
 彼は窓から外に眼をやり、暮れかけた黄浦江のどんよりした水面を眺めた。――私たちの食卓は窓際にあったので、江上の小舟までも見えた。
「そのうちに、無錫附近を案内するよ。あの辺は、こんな濁った水ばかりでなく、清澄な小川が多い。町から少し離るれば、有名な梅園があるし、太湖の眺望も楽しめる。農村は君には興味がないとしても、無錫の町それ自体は、中国殆んど唯一の自力興起工業都市で、生糸や紡績や製粉の工場が軒を並べている。なにかしら清明で溌剌としているよ。」
「農業を言い落すのはおかしいね。」と私は微笑した。
「言うまでもないことだからさ、米や麦は最上等のものが穫れる。然しそのようなことより、無錫の軽工業地帯は、なお農精神を失っていないのが最も注目すべき点だ。農精神を失わない工業というものを、僕は考えているよ。そこに本当の生産の喜びが現代にも生きてくる……。」
 こういう事柄になると、私はいつも黙って、謹聴することにして
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