[#ここで字下げ終わり]

 それが何度もくり返される。コップを叩く者がある。足を踏み鳴らす者がある。わあっという騒ぎ……。
 他に殆んど常連というのがない。彼等だけでカフェー全体を占領してる形である。
 和田弁太郎は一人黙って酒を飲んでいる。だから早く酔っ払う。半ば自棄になって、将軍みたいな足取りで歩き出して、合唱に加わる。それをお喜代が面白がってはしゃぎ出す。だが、畜生、貴様の知ったことか、とそんな気持で、彼は女学生の讃美歌合唱を頭の中に描きながら、ばかばかしく声を張り上げる。
 そういう騒ぎが、或る晩突然中断された。
「おい、公爵令嬢、君は何度キスを許したんだ。」
 そう云って、慷慨悲憤癖のある男が――例の、大地震の時に一同がはいりこむことになっているその寝台の男が、お喜代に向って、しつこく、尋ねかけ初めたのである。
「刺繍になら、キスを許すも許さないもないわ。あたしからしてやるのよ、ええ幾度でも。だって、始終首のまわりにつけてるんじゃないの。」
「ばか、白ばっくれてやがる。そら、その刺繍じゃない。そら、あの刺繍さ。」
「どの刺繍。」
「刺繍の男さ。」
「そんな男があって。」

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