をしかめるのである。何かしら不気味な汚れたものにぶつかった気持である。
いつのまにか、向うの窓には白い顔の群が消えてしまっている。けれど空耳かしら、合唱の歌声はまだその辺の空中に残っている。清らかな香わしい杳かなものに、心が囚えられてゆく。
そしてやはりいつまでも、和田弁太郎は夢想に耽るのである。睡眠不足の熱っぽい頭は、明確な観照をぼかして、そういう馬鹿げた夢想に適するのである。
そういう彼を、不意に同室の誰かが襲うことがある。
「おい、どうしたんだ。」とぽんと肩を叩いて、皮肉な微笑を馴れ馴れしく見せつける。「また例の、プラトニック・ラヴかね。もう誰もいやしないじゃないか。」
和田弁太郎は既に先刻から、向うの建物の窓に誰もいないことを知っている。然し明らさまに云われると、おもわずかっとなる。プラトニック・ラヴという言葉が第一気に喰わないのである。カフェーなんかに入りびたってるくせに、という腹もある。
もし友人がそれ以上突っこんでゆくならば、和田弁太郎は眼をぎらつかせながら、本当に飛びかかって殴りつけかねない様子をする。で彼を揶揄するには、他の機会を俟たなければならない。
平
前へ
次へ
全23ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング