をためていらしたの。どうなすったんでしょう。」
 中野さんにも腑に落ちなかった。黒水晶のような眼の光が、中野さんの頭の中に何度も浮んできた。

 五月から六月へかけて、中野さんは会社の用件で満州の方へ旅をした。その旅行中に、意外な事件がもち上った。
 喜代子には幾つも縁談がかかっていた。それを喜代子は両親から相談される度毎に、一言のもとにはねつけていた。所がその春非常によさそうなのが一つあった。帝国大学の病院に助手をしてる医学士で、家柄もいいし人格も高いし、将来有望な才能だということだし、博士論文の種を研究中の由だった。両親は可なり気乗りがした。喜代子はまだ結婚を急ぐほどの年齢でもなかったけれど、一つ年下の妹があった。それやこれやで、両親もしまいには度々喜代子に承諾を勧めた。然し喜代子はいつもきっぱりはねつけた。するうちに、喜代子は突然家をぬけ出して、笹部という余り有名でない詩人と同棲してしまった、というのである。喜代子はその男と以前から恋仲だったらしく、後で考えてみれば、度々怪しい手紙が来たこともあるし、中野さんの家に行くと云って出かけては、屡々外で逢っていたらしかった。
 滅多に顔
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