中野さんは口を変な風に歪めて、微笑の眼付を空に据えた。
 ごーっと、風の吹くような波音が、遠く一面に拡がっていた。

 九月の末、まだひどく蒸し暑い日曜日の午後遅く、喜代子と笹部とが連れ立って、中野さんの家へ不意に訪れて来た。中野さんは心待ちにはしていたものの、喫驚して立上りかけた。がすぐにその腰をまた下した。
「ここへ通してくれ。」
 女中が出ていってから、中野さんは慌しく居住《いずまい》を直し、襟をつくろい、頭のこわい毛を一寸撫でつけた。
 喜代子と笹部とは幽霊のように――と中野さんは感じた――足音も立てずにはいって来て、入口の敷居際に坐った。
「初めてお目にかかります。」と低い声で笹部は云った。
「やあ……。こちらへ[#「こちらへ」は底本では「こちらえ」]来給え、さあ、ずっと。」
 喜代子までがもじもじしていた。そして漸く座に就くと、喜代子は顔を伏せたまま云った。
「今日――お邪魔ではございませんかしら。」
「なあに、丁度いいところだった。」
 だが、そうして対座してみると、少しも話がなかった。中野さんは文学方面の事は何にも知らなかったし、文学者のことを異人種ででもあるように漠
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