付いて云った。
「それが、まだ血統も何も分りませんし、詩を書く人だというきりで、下宿屋にごろごろしているというんですからね。」
「血統なんか調べたらすぐに分るでしょう。それに、詩人なんてものは、今日は下宿屋に転っていたって、明日は天下に名を知られるようになるかも分らないから。」
「へえー、そんなものでしょうか。」
「とにかく、その男と一緒になさるのが一番よい策でしょうね。」
「あなたがそんな考えだろうとは、思いもよりませんでしたよ。ほんとにわたしは、途方にくれてぼんやりしてしまって……。」
中野さんも実はぼんやりしているのだった。中野さんはどうかすると、ひどくぽかんとすることがあった。そしてそういう時、よく思い出す一事があった。
まだ中野さんが十歳くらいの時のことだった。実母が死んで若い継母が来ていたが、その新らしい母に対して、彼は実母に対するのとは全く違った気持でなつかしんでいた。喜代子の母が――二つばかりの赤ん坊だったが――胸に抱かれて乳を飲んでるのが、妙に羨ましく妬ましかった。そんな気持から、或る時ひどい悪戯をした。若い母はいつも日本髪に結っていて、鼈甲だの珊瑚だの瑪瑙だの、その他いろんな美しい玉のついた、種々の髪の道具を持っていた。彼はそれをそっと盗み出して隠しておいた。母は大騒ぎを初めた。漸く髪の道具は袋戸棚の中から見付ったが、彼は素知らぬ顔をしていた。そして翌日またその悪戯をくり返した。そこで彼の仕業だということが分った。母は乱れた髪のまんまで、彼を人のいないところへ呼んで、叱ったり歎いたりした。自分の産んだ子供と彼とを分け距てしてはいないだの、彼をも心から可愛く思ってるだの、何が不足で私をいじめるだのと、眼に涙を一杯ためて説ききかせた。聞いてるうちに彼は無性に悲しくなって、母の膝に取縋って泣き出した。それから、膝の上に抱き上げられて、泣きながら見上げた母の顔が、非常にやさしく美しく、神々《こうごう》しくさえも思えた。で彼はまた母の胸に顔を埋めて、震えながら泣き出した。
それを思い出す気持が、喜代子のことと何の関係があるかは分らなかった。いやそれは、喜代子のことなんかよりも、細君を亡くして多くの子供をかかえながら、未だに後妻を迎えないでいることの方に、より多く関係が深かったかも知れない。がとにかく中野さんは、喜代子の母親を――その当時の赤ん坊を――
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