をためていらしたの。どうなすったんでしょう。」
中野さんにも腑に落ちなかった。黒水晶のような眼の光が、中野さんの頭の中に何度も浮んできた。
五月から六月へかけて、中野さんは会社の用件で満州の方へ旅をした。その旅行中に、意外な事件がもち上った。
喜代子には幾つも縁談がかかっていた。それを喜代子は両親から相談される度毎に、一言のもとにはねつけていた。所がその春非常によさそうなのが一つあった。帝国大学の病院に助手をしてる医学士で、家柄もいいし人格も高いし、将来有望な才能だということだし、博士論文の種を研究中の由だった。両親は可なり気乗りがした。喜代子はまだ結婚を急ぐほどの年齢でもなかったけれど、一つ年下の妹があった。それやこれやで、両親もしまいには度々喜代子に承諾を勧めた。然し喜代子はいつもきっぱりはねつけた。するうちに、喜代子は突然家をぬけ出して、笹部という余り有名でない詩人と同棲してしまった、というのである。喜代子はその男と以前から恋仲だったらしく、後で考えてみれば、度々怪しい手紙が来たこともあるし、中野さんの家に行くと云って出かけては、屡々外で逢っていたらしかった。
滅多に顔を見せたことのない喜代子の母は、自分で中野さんの家にやって来て、仕末に困って相談をもちかけた。
「私達もうっかりしていました。ふだんあんなに無邪気そうにしていたものですから、こんなことを仕出かそうとは、夢にも思わなかったのですよ。」
「そりゃあ誰だって……。」と中野さんは答えた。
「一度家に戻って来てくれるといいんですが、家に帰るくらいなら死んでしまうと云うし、その男がまた、私達は生命がけで……だなんて云ってるそうですから、もし無理なことをして万一のことでもあったらと、それも心配になりますしね、どうしたものか困ってしまったのですよ。それかって、このまま放っておくわけにもゆきませんしね。世間の口もうるさいし、もし新聞にでも出るようなことになったら、愈々恥を世間に曝すようなものですし……何かよい工夫はないものでしょうか。」
中野さんはその話を初め聞いた時にも、別段驚きはしなかった。驚かないどころか、何だか夢のようなお伽噺でも聞いてる気がした。それが自分でも一寸不思議な心地だった。そして、黒水晶のような眼の光をまた思い出した。
「じゃあその男と一緒になさったらいいでしょう。」と中野さんは落
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