…。」
「いいですわ。」と喜代子は不機嫌そうに答えた。「あたし菜の花の畑を表現してみるつもりなんだから。」
「表現はよかったね。」
 だが中野さんの調子は、少しも皮肉ではなく嬉しそうだった。
「ええ、表現するのよ。」と喜代子は平然と云ってのけた。「暖くなったらあたし、菜の花ばかり咲いてるところに行ってみるつもりなの。」
「そんなところがあったかな、東京の近くに……。」
 それきり喜代子は黙り込んで、どうにか菜の花を生けてしまった。
 その室咲きの余り匂わない菜の花を見い見い、中野さんは大きな紫檀の机に向って、いい気持で、調べ物の続きをやりだした。
 喜代子は向うの室で、小学校に通ってる末の子供達の相手になって、その試験準備をみてやっていたが、暫くすると、勉強の方はそっちのけにして、皆できゃっきゃっと遊び初めた。年上の方の娘までそれに加った。騒々しい笑い声の間々に、喜代子の澄んだ朗かな声が高く響いた。
 中野さんは調べ物に気がはいらなくなって、日向の縁側に出て、ぼんやり庭の方を見ていた。植込の落葉樹の芽がふくらんで、地面は湿気を帯びて黒々としていた。
 そこにひょっこり喜代子が出て来た。
「今日はばかに賑かだね。何か嬉しいことでもあるらしいね。」
「ええ……。」
 言葉尻を濁してから、喜代子はふいに真面目な顔付になった。二つも三つも年が上のようになった。
「あたし……叔母さまが生きていらっしゃるとほんとにいいんだけれど……。」
「え、叔母さまが……。」
 中野さんはびくりとして、喜代子の顔をみつめた。
「だけどいいわ。本当はお話があるんですの。叱らないで頂戴ね。」
「何を云うんだい、だしぬけに。叱りはなんかしないから、話があるなら云ってごらん。」
「今じゃないの。も少したってから……。」
 伏せてた顔をふいに挙げて、じいっと見入ってきたその眼が、黒水晶のように底光りしていた。中野さんはまたびくりとして、一寸口を利きかねた。その間に、喜代子は黙って向うへ行ってしまった。
 子供達はまた一しきりはしゃぎ続けていた。それが次第に静まっていった。
「どうしたの、喜代子さん。いやな人ね、考え込んでばかりいて。」
 云ってるのは年上の娘の静子だった。
 その静子が、後で中野さんにこんなことを云った。
「可笑しいわ、喜代子さんは。ふいに騒ぎだしたり、また黙り込んだりして、眼に一杯涙
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