前にして、ぼんやりそんな変なことを思い出しながら、晴れやかな美しい幻を見たのだった。……あの美しい処女喜代子が生命をかけて恋している。相手の男はそれにふさわしい美しい人である。今は下宿の陋室にくすぶっているが、やがては二人の恋愛から……。

 喜代子の消息は、それきり中野さんの耳へは余り達しなかった。勿論喜代子はやって来ないし、中野さんの方から武井家へ出かけてゆきもしなかった。
 夏の暑い盛りになると、例年の通り、中野さんは家族連れで常陸の海岸へ行った。高等学校へ通ってる上の子は、友人と登山の旅に出かけたので、静子と中学二年の子と小学校へ行ってる二人の娘と、女中を二人連れて行った。
 毎日いい天気が続いた。漁も豊富だった。毎年来るのではあるが、やはり海岸は爽快で物珍らしかった。
 そこへ、或る日、喜代子からの桃色の封筒が配達されてきた。

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叔父さま。
何と申上げてよいか、ただ心から感謝いたすより外はございませんの。私は叔父さまに叱られるのが、誰よりも何よりも恐ろしゅうございました。そして、こんどのことについて、叔父さまこそ一番ひどく御怒り遊ばすものと存じておりましたのに……。ああ、何と申上げたらよろしいでしょう。叔父さまが一番よく私達のことを理解して下さいまして、そして真先に私達に同情して下さいましたことを、後で知りました時、私はもう泣き出してしまいそうになりましたの。叔父さまのお影で、私は凡てのことを許されました。父も母も許してくれました。そして私はもう公然と笹部と一緒に、自分の信ずる途を辿ることが出来るようになりました。
今から思いますと、私はあの時どうしてあんなことが出来たのか、自分でも恐ろしい気がいたしますの。でも私は、私の心は、ああするより外に致し方はなかったのですもの。やはり信じて進むことは大きな力でございますわ。叔父さま、どうぞ私達を信じて下さいませ。私達が本当の途を進んでることを、信じて下さいませ。
私は今、晴れ晴れとした力強い心で、叔父さまに御礼申すことが出来る気がいたしますの。ただそれだけ、それだけを申上げたくて、手紙を差上げることにいたしました。海からお帰りになりました頃、笹部と一緒にお伺いいたしましてもよろしゅうございましょうか。笹部もどんなにか感謝いたしておりますの。叔父さまは私達にとって、ほんとに力でございますの。
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