も懸っていたりした。樹々の幹が堅くなり、物の影が淡くなって、透き通った青みを帯びた明るみが、黄色を帯びた地上に満ちると、蛇は穴に入り、虫は叢の中に隠れた。凡てが自分自身の棲家に籠るのである。そして凡てが自分の露わな姿を恐れるのである。
 過去が彼に帰って来、彼の全部が彼のうちに露わになる時、彼は自分を産んだ母の懐のうちに帰らん事を思い、自分を生じた大地の膚に唇をつけん事を思った。そして其処には、母の懐の中には自分の温みがあり、黒い地面には自分の耕耘した青い野菜が育っていた。
 その時彼は、存在することの嬉しさを感じ、また存在することの淋しさを感じた。そして彼は、存在する[#「する」に傍点]自己と存在した[#「した」に傍点]自己とを見た。存在するであろう[#「するであろう」に傍点]自己は彼の視野の外に逸していた。それから彼は何物かに向って手を合したくなった。
 庭の片隅に立つと、屋敷は高台だったので、野のはてまでも見渡せた。農夫等の稲取りの様がすぐ向うに見て取られた。一筋の街道の上には、籠を背負った行商の女の姿も見られた。彼女は、収穫時の稲田の間を廻って、樽柿と籾米とを換えて商うのであっ
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