く頃、彼等はよく鍬を手にして裏の畑の中に立った。
彼は下駄をぬぎ捨てて黒い地面の上に踏み入った。蹠には黒土の露に濡った冷たさが感じられた。鍬をその土中につきさして耕すと、青い蚯蚓などが匐い出して来た。性来蚯蚓が大嫌いである彼も、そういう時は少しもそれに嫌悪を感じなかった。そして青々とした野菜の葉が黒い土の中から伸びているのを見ると、自分も蚯蚓と共にその大地の上に横わりたくなった。凡てが冷たいほどに清らかであった、そして健かであった。涙が湧き出るほどに清らかで健かであった。
ふと蜘蛛の一筋の糸が顔に掛ったので、鍬の柄に屈めていた身体を起すと、母も跣足のまま其処に立って彼の姿を眺めていた。
「お母さん、余り疲れるといけませんよ。」と彼は云った。
父の死後、母は急に痩せて来た。然しそのために少しも骨立ちはしなかった。彼女はいくら痩せても、丸くふっくらとしていた。そしてそういう痩せ方をする身体のうちには、夢見るような魂があった。彼も父の死後、そういう母の魂のうちに自分の心を抱かせる習慣を覚えてきた。
庭の樹木が紅葉して、いつの間にかその葉が散るようになっていた。蜘蛛の巣に落葉が一つ幾日も懸っていたりした。樹々の幹が堅くなり、物の影が淡くなって、透き通った青みを帯びた明るみが、黄色を帯びた地上に満ちると、蛇は穴に入り、虫は叢の中に隠れた。凡てが自分自身の棲家に籠るのである。そして凡てが自分の露わな姿を恐れるのである。
過去が彼に帰って来、彼の全部が彼のうちに露わになる時、彼は自分を産んだ母の懐のうちに帰らん事を思い、自分を生じた大地の膚に唇をつけん事を思った。そして其処には、母の懐の中には自分の温みがあり、黒い地面には自分の耕耘した青い野菜が育っていた。
その時彼は、存在することの嬉しさを感じ、また存在することの淋しさを感じた。そして彼は、存在する[#「する」に傍点]自己と存在した[#「した」に傍点]自己とを見た。存在するであろう[#「するであろう」に傍点]自己は彼の視野の外に逸していた。それから彼は何物かに向って手を合したくなった。
庭の片隅に立つと、屋敷は高台だったので、野のはてまでも見渡せた。農夫等の稲取りの様がすぐ向うに見て取られた。一筋の街道の上には、籠を背負った行商の女の姿も見られた。彼女は、収穫時の稲田の間を廻って、樽柿と籾米とを換えて商うのであっ
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