くて熱に浮かされている。強いて君のことを想えば、何となく心がてれて、気恥しい思いがする。愛に変りはないけれど、愛は今、影のなかに、カーテンの奥に、静かに垂れ籠めている。君よ安らかなれ、と私が斯く遙かに云うのを、恋人よ、許し給え。
 情意の満潮の時なのだ。
 何を読んでも、何を聴いても、何を眺めても、一切が悉く低劣卑賤に思われる。部分的な美は、全体の醜のなかに呑みこまれる。傑れた思想や作品にめぐり逢っても、畢竟、斯かるものでこの人生を如何せんやという思いが強い。私は人生のことを考えるのである。人間の生活、その悲惨や桎梏や欲望や希望、その現実と理想とを、私は考えるのである。直接的なもの現実的なものと、間接的なもの理想的なものとの乖離が、不安な焦慮を齎す。現在に対して絶望が頭をもたげ、未来に対して信念が薄らぐ。斯かる一切のものが何の役に立つか。強力な実践的なものが必要なのだ。宝石の光は巖石の重量に及ばない。本日天気晴朗なれども波高し、というのが日本海軍の海戦記の常套語だと聞く。私の心中も、本日天気晴朗なれども波高し。こういう時私は、批評家ではない。珠玉をも瓦礫のなかに蹴やるからである。猶更、
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