なたは云った。
 そんなばかなことをわざわざ断る必要がどこにあったろう。私はただ唖然とした。そして私が知りたいのは、そういう話が一体どこから出たかということだった。あなたは苦しげな苛立った表情をした。感情が押しつぶされて、理智だけが荒立っていた。
「岡部君から出た話でしょう。」と私は云った。
 あなたは黙っていたが、私にはそれでもう凡てが分った。岡部はあなたのことを心配したのだ。結婚が最善の途だと考えたのだ。それは親切な常識からくる解決案だったろう。そしてその親切な常識が動きだしたために、私にもいろいろなことが分ってきた。
 富永郁子よ、私は今やはっきり云うことが出来る。私たちの間には少しもほんとの愛はなかった。ただあるのは、愛してると信じようとする観念上の努力と、肉体的享楽だけだった。私たちこそ狂言をやってきた。真剣なのは平野だけだったかも知れない。ああいう男との享楽には、或る粘液質な繋がりや滓を残すと私が恐れたのは、そのところを指すのである。情意と肉体とが一つになって絡んでくる。あなたがもし結婚するとすれば、平野とすべきであって、断じて私とではない。
 私は今やあなたからすっかり解放された自分の心を感ずる。その自分の心の自由を護ってゆこう。
 この意味で、私は岡部の親切な常識に感謝する。あなたもいろいろな感謝を覚えているだろう。ただ、私は感謝はするが、憎悪の念をどうすることも出来ない。そういうものの存在に対して、本能的な嫌悪を覚ゆる。この感謝と憎悪とを調和させることの出来ないのが、私の悩みである。調和させることが出来ないとすれは、私は感謝をもち続けてゆくべきであろうか、それとも憎悪に執すべきであろうか。
 富永郁子よ、せめてこれくらいのことだけは平静な心で考えていただきたい。私とあなたとに結婚の意のないことを知って、平野はなぜああいう絶望的な行為をしたのか。あなたは病院に平野をなぜ一度も見舞わなかったのか。結婚の話をわざわざ私に断ることによって、果してあなたは救われた気持になったか。これまでのことを狂言としてあなたの許から立去ることによって、果して私は満足だったか……。
 私は今や自由であるが、然し淋しい。それは私一人のことだ。私は一個のルンペン坪井宏にすぎない。無益な夢想からぬけだした野人にすぎない。

     二

 初めから、何かしらなごやかでないものが
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