はそう言葉をかけておいて、返事もまたないで歩きだした。彼も私と並んで歩いた。暫くして、私はくり返した。何の用ですか。暫くして、彼は云いだした。あなたは富永さんと結婚なさるとかいう噂があるが、本当ですか。暫くして、私は答えた。結婚などは決してしない。電車道と平行したわりに広い静かな裏通りだった。私たちの対話は、数歩の間をおいて、独語の調子で、水中ででもあるように落付いて響いた。私は云った。私と富永さんのことが、一対君に何の関係があるんですか。数歩してから、彼は云った。結婚はなさるまいと思っていたが、もし結婚して下されば、私は助かるんだけれど……。私は立止った。彼の蒼白い整った横顔が、貝殼のように冷たく見えた。そして率直な厚かましい眼付が、たじろぎもしなかった。その眼付を受止めておいて、私はまた歩きだした。僕はもう彼女とは無関係な立場だから、そんな話はやめにしよう。そして歩いてるうちに、彼の姿はいつか消えていた。まるで夢のように浮動した而も明確な情景だった。
 あなたは平野のあの行為を狂言だというけれど、私はそうは思わない。彼のような男にあっては、狂言と真実とは殆んど間一髪の差にすぎなくて、偶然の機会がそれを支配する。彼は私と別れて、あなたに電話をかけた。あなたは丁度家にいた。彼は服薬してあなたのところへ飛びこんだ。そしてあなたの前で昏倒した。手当が早かったので助った。それだけのことである。もしあなたが不在だったら、彼は決して服薬などはしなかったろうし、もし往来で倒れていたら、彼は死んだかも知れない。
 あなたが真先に岡部を電話で呼びよせたのは、賢明な策だった。夜遅く、迎えの自動車で私がかけつけた時には、岡部の配慮でもう万事かたずいていた。岡部と平野の兄と医者と、三人の間に事は秘密に保たれた。平野は翌日はもう回復して、三日目には病院から出た。その間あなたは、家の奥にひきこんで、人にも逢わないようにしていた。高慢なあなたの心は硬直して、一片の情味もたたえていないかのように見えた。平野の行為をでたらめな狂言だとして、癪にさわるという様子だった。その上、あなたは私にまでも攻勢をとってきた。結婚してはどうかという話があるが、聞いたかというのである。私はただ微笑して、あなたの顔に蝋細工のような美しさを認めた。
「そのことは、考えにいれないでおいて下さい。お断りしておきます。」とあ
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