上海の渋面
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]
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 上海の顔貌はなかなか捉え難い。
 上海には二十数ヶ国の国民が居住していて、現在の人口は四百万以上だと云われている。このうち固より大多数を占める支那人中には、戦火を避けて租界に遁入して来た者甚だ多く、充分の職場を求むるに由なく、徒らに蝟集している観さえある。租界中央の競馬場から黄浦江岸バンドの高層建築街に至る中間の支那街路は、全く喧騒雑沓の巷である。この辺でたまに、拳銃の音が聞えることもあり、拳銃を手にして駆けている工部局警官の姿が見えることもあるが、行人はあまり振向きもしない。そんなことはもうつまらなくなってしまってるのであろう。黄包車を挽く苦力と云い争いをしている乗客や、苦力を殴りつけている警官なども、時折見かけるけれど、弥次馬のたかること甚だ少い。それも日常事の一つとなってるのであろう。
 だが、群集のこうした無関心さには、他に何か別な根深いものがあるようである。南京路辺の雑踏中のアパートの上層で、他地から移ってきた大学分校の授業が続けられてるのは、種々の事情上やむを得ないことであるとしても、北京路辺の元からある小学校などでは、隣家の裏口の洗濯の音が、教室内にまで遠慮なく飛びこんで来るのがある。また四川路あたりには、街路の壁に立てかけた掛枠に草双紙類がずらりと並んでる周囲に、子供たちや中には大人まで集まって、僅かな料金でその貸本を借り、自動車や黄包車や通行人の雑沓のなかに街路に屈みこんで、一心に読耽ってるのが見られる。夏になると、そうした貸本屋が出る日陰の場所は、また恰好な凉み場所でもあるのだと、或る人は云った。子供の時からこういう風に鍛えられてきた神経は、長ずるに及んで如何様になるであろうか。
 斯かる神経は、如何なる喧騒にも堪え得るであろうし、また、如何なる生活にも堪え得るであろう。そしてまた、喜怒哀楽を表わさない底知れぬ表情をも作り得るだろう。
 上海は一面騒音の都市であるが、支那宿の騒々しさはまた特別である。蘇州や楊州などのような比較的早く寝静まる都市に於ても、支那旅館では、深夜まで放談高笑の声が絶えず、マージャンの音が絶えず、夜中の三四時頃まで続く。この騒々しさの中にあっても、眠りたい旅客は平然と早くから眠りにはいるそうである。上海の租界では、メトロポールの如き入念な建築のホテルでも、四方から騒音が窓辺に襲来してくる。支那旅館は殆んど終夜狂宴の場所だという。
 賭博場内の有様は妙である。その内部は予想に反してひっそりとしている。人々はただ黙々として金を受け渡してるだけで、その顔を見ただけでは勝ったのか負けたのか見当もつかず、喜びや悲しみを浮べてる眼付は見えず、勝負を度外視してただ賭博そのものだけを享楽してるようである。その顔付は、傍の小房内で阿片吸飲に陶然としてる人々のそれと、ちょっと見たところでは区別がつかない。斯かる賭博場は日本人には禁止の場所であるが、日本人が多少出入しているハイアライなどで、馬券よりも遙かに小額のその券を買って、あらわに喜んだり悄気たりしてるのは大抵日本人で、支那人は最も平然としている。
 斯かる表情の、そして更に斯かる神経の、重積してる群集の中にはいると、往々、自分がその中で溺れ、窒息しそうな幻影に囚われることがある。大陸的神経ということが云われる。然しそれだけでは言葉が足りないのを私は感ずる。これは大陸的神経などという吾々の概念からはみ出すところのものだ。
 こうした大衆が上海には充満している。その最も貧窮なものには、黄包車挽きなどを生業としてる苦力がある。蘇州河の数ある橋のうちでも、ガーデン・ブリッジは自動車の往来が最も頻繁であり、南北四川路をつなぐ橋は人間の往来が最も頻繁であり、この後者の橋の袂には、早朝から深夜に至るまで黄包車が群がっている。荷物をさげた人でもあろうものなら、一時に多数押寄せて来て四方から荷物に手を出し袖を引張る。客がそれらを払いのけて一人を選べば他の者等は直ちにけろりとして一抹の未練気も示さない。選ばれた一人は、客を車に乗せ梶棒を上ぐるや、梶棒の向いた方向へ真直に走り出す。車上から右とか左とか、足を踏みならしながら指図する客も屡々見受けられる。それらの苦力の感情の動きについては、外部からの窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]は不可能である。
 この苦力等のうちの、更に最も貧窮なのは、上海に流れこんでる窮民たちである。彼等は一日一弗(上海通貨の)で黄包車一台を親方から借りる。三四人
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