組んで一台借りるのもある。稼ぎがよければ一弗余の収入になることもあり、悪ければ僅か数銭だという。
この難民区は悲惨を極めている。北停車場の南にある英警備区域内のそれは最も惨めで、空地にテントほどのアンペラ小屋を立て並べ、屋内も寝所だけどうにか作っただけの土間で、一つの小屋に三家族も同居してるのがあり、女子供ばかりの家では屑拾いをしている。アンペラ小屋の間の通路は漸く人が通れるだけのもので、雨が降れば泥水が溢れる。大抵の者は眼病と皮膚病とにかかっているらしく見える。
日本警備区域内では、北四川路の森永菓子店のすぐ近くに難民区があるのには驚かれる。此処にもアンペラ小屋のものもあるが、戦禍による半壊の家屋を使用してる者が多いのは幸で、世帯整理もよく行届き、長春里第×号などと洒落た名称がついている。この日本地区のみにて窮民二万を数うる由である。
この両難民区に於て、薄暗い小屋の中でマージャンの牌を弄んでるもの数組を見かけた。吾々が表から覗きこんでも、ただ曖昧な微笑を浮べるだけで、中には見向きもしないで牌を見つめたきりのもいる。公然と数銭の金を賭けているのがある。その悲惨な不潔な環境のなかで正視し難い光景だ。それらの難民はさし迫ってる上海復興のために必要な労力となる筈のものであるが……とY氏は言葉尻を濁した。
かような数万の難民に比べて上海市内に乞食の数は意外に少い。これは工部局で時折乞食狩りをなすからだという。乞食を見当り次第トラックに積みこんで数十キロ距った田舎に運び出すのである。其処で放たれた者たちは、再び市内にまい戻る者もいくらかあるが、多くは四方に散り失せてしまうそうである。
さて、私は上海に蝟集してる大衆の一面を、そのどん底まで述べたが、彼等にその当面の必須事たる安居楽業を得さしてやるだけでも、容易なことではあるまい。趙正平氏は私達に、氏が政治の要諦と観じているらしい老子研究の自著を贈られたが、上述の大衆はこの研究の対象からもはみ出すものを持ってるもののように思われる。
*
上海の知識階級の人々は右のような大衆とは甚だしく異った雰囲気の中に生きてるようである。大衆は極端に現実主義で個人主義で、自己の周辺についてさえ冷淡で、政治などには殆んど無関心である。然るに、上海の現在の知識階級の人々は、政治情勢への顧慮なしには生活し難い状態である。蘇州河以南の租界に住んでる彼等の多くは、其処が未だ日本に対する敵性の濃い英米の勢力圏内であり、随って重慶政府と密接な繋りを持っているだけに、単に一身の安全を図るためにも、抗日救国を口にせざるを得ないのである。
新支那中央政府の要人たる傳式説氏や趙正平氏などを中心とする文芸科学社関係のグループや、中華日報や新申報への関係の人々を除いては、たとえ和平派に心を寄せ東亜新秩序建設に志ある人々でさえ、表面上灰色的態度を取らざるを得ず、日本人と会談することなどは甚だしく警戒する。A氏の所で私達が逢った某シナリオ作家は、自然に自分の名前が知られるのを待つだけで自ら名乗ろうとはしなかったし、同じく氏の所で私が偶然同席した頼もしげな一青年は、互の姓名を知り合うことなどには全く無関心な態度を取った。数名の大学教授や文学者などと私達がひそかに会談し得たのも、彼等の間に信望のある自然科学研究所の上野太忠氏の斡旋に依るものだった。そして日本側と関係のある人々の許には、鉄血鋤奸団などというものからの脅迫状が舞い込んでいる。
彼等は何かしら憂鬱そうである。私達と会談しても、どこか心の扉を閉してる様子があり、日本に対する不満の点さえも明らさまには口にしない。その心境には孤独の影がさしているらしい。過去の信条が崩壊して未だ新たな確信を掴みきっていない悩みもあろう。
現在上海には、思想文芸の能才は甚だ少い。多くは奥地に遁入してしまっている。市内に潜んでいる者は之を見出すこと容易ではない。嘗て八・一三事件後、文化界救亡協会というのが共産党員によって作られていたが、文化人の奥地への遁入甚だしいため、新たに国民党系の人々によって文芸界救亡協会というのが結成され、その発会式には両派の激しい抗争があったそうであるが、それらの人々も今は求むる術がない。また嘗て魯迅と親交がありその一派から親しまれていた内山完造氏の周囲には、上海在住の文芸愛好者達から成る芸文会という集まりがあるが、その会合にも今は殆んど中国人の出席を見ないそうである。雑誌は数十種刊行されているが微々たるものであり、ただ新聞のみは賑かで、汪派の中華日報や新申報と、重慶派の申報や新聞報や大美晩報其他との間に、激越な政治的論争が繰返されている。
上海の文化活動の復興はいつのことであろうか。それには固より、新中央政府の実力が重慶政府を圧倒するのを俟たな
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