沼のほとり
――近代説話――
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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佐伯八重子は、戦争中、息子の梧郎が動員されましてから、その兵営に、二回ほど、面会に行きました。
二回目の時は、面会許可の通知が、さし迫って前日に届きましたため、充分の用意もなく、一人であわてて駆けつけました。そして、長く待たされた後、ゆっくり面会が出来ました。
帰りは夕方になりました。兵営から鉄道の駅まで、一里ばかり、歩きなれない足を運びました。畑中の街道で、トラックが通ると濛々たる埃をまきあげました。西空は薄曇り、陽光が淡くなってゆきました。面会帰りの人々の姿が、ちらりほらり見えますのが、時にとっての心頼りでした。
小さな店家を交えた町筋をぬけると、突き当りが停車場です。その狭い構内に、大勢の人がせきとめられていました。
――東京方面への切符は売りきれてしまった。
そういう声が、人込みの中に立ち迷っていました。
切符売場の窓口に顔をさしつけて、しきりに何か談じこんでいた人も、諦めたようにそこを立ち去りました。見知らぬ人同士、話しかけて智恵を借り合うのもありました。――
わりに大きな次の駅まで、二里あまり歩いて行けば、東京方面への切符があるかも知れませんでしたし、あるいは、そこで交叉してる他の鉄道線から迂回して、東京方面へ行けるかも知れませんでした。
駅内の人々は、次第に散ってゆきました。けれどまだ、多くの者が、立ち話をしたり、腰掛にもたれたりしていました。
上り列車が来ました。超満員の客車は、切符を持ってる少数の人々を更に吸収して、夕闇の中に去ってゆきました。
佐伯八重子は、置きざりにされた人々の中に交って、ぼんやり佇んでいました。慌しく出て来たために、往復切符の手配は出来ていませんでしたし、今や、帰りの切符は買えず、途方にくれました。和服に草履の身扮で、しかも疲れきったか弱い足で、次の駅まで歩くことは到底望めませんでした。たとい歩いて行ったとて、それから先がまたどうなるものやら、それも分りませんでした。
当もなく、八重子は、町筋の方へ行ってみました。急に暮れてきて、どの家にも電灯がついていました。
薄汚れた暖簾のさがってる蕎麦屋がありました。黒ずんだ卓子が土間に並んでいて、やはり兵営での面会帰りと見える人たちが、代用食らしい丼物を食べていました。
八重子もそこにはいってゆき、お茶を飲みました。そしてお上さんにいろいろ尋ねてみて、この辺には宿屋もなく、乗り物もなく、泊めてくれる家も恐らくないことを、知りました。
八重子は駅に戻りました。上り列車はまだ八時すぎのが一つありました。けれど本日分の切符は全く売りきれだということが、切符売場で確かめられました。
駅内の腰掛には、多くの男女が、何を待つのか、ぼんやり坐っていました。子供連れの者もありました。腰掛の上に寝そべってる者もありました。その片端に、八重子は腰を下しました。――一枚の乗車券を手に入れるために、徹夜して長い行列をつくる、そういう時代だったのであります。
八重子は眼をつぶりました。何よりまず梧郎のことが、瞼のなかに浮んできました。軍服がだいぶ身についてきたきりっとした態度、陽やけした顔にのぼる男性的な微笑、それでもやはり、お母さまという幼な時代通りの甘えた語調……。
食物は禁ぜられてるという面会所の隅で、袖屏風をつくって、重箱の中のおはぎをそっと示すと、梧郎は声を立てて喜びました。そして戦友というのを二人連れてきました。砂糖壺の底をはたいて拵えたおはぎの甘さに、三人が舌つづみを打つのは、涙ぐましい光景でありました。
その三人の話では、部隊はまもなく何処か遠くへ移動するらしいとのことでした。戦線は次第に日本周辺へ押し戻されかかっていましたし、九州地方はもう空襲を受けていました。だが、梧郎は母に向って、戦争のことなどは殆んど語りませんでした。笑ったり、眉をしかめたり、甘えたりして、日常事のことだけを話しました。然し三人の戦友の間では、戦争に関する事柄も少しく話題に上りました。そしてそこでだけ、八重子は、梧郎の、いや彼等の、雄々しい決心らしいものに触れました。その触れた感じは、なにか眩いに似たものがありました。
その眩いに似たものを、また、駅の木の腰掛の上で、八重子は感じました……。
腰掛にいる人々は、もうまばらで、誰も口を利きませんでした。うとうと居眠ってる者もありました。ただ眼を宙に見開いてるだけの者もありました。地下足袋の男が、ちょっと駅にはいって来て、すぐに出て行きました。そのあと一層ひっそりとしました。秋の夜風が軽く然し冷かに、駅内を通りぬけてゆきました。
時間が、一分一秒はひどく緩かに、全体としては思いのほか速く、過ぎてゆきました。八時すぎの上り列車はもう通過してしまいました。
明朝……ということが、たいへん遠い夢のようでありました。
八重子は腰掛の上に身動きもせず、繻子のコートにくるまって、眼をつぶり、眩いに似た感じに浸りました。
下りの列車が通りました。八重子はただ薄眼をあけてみただけでした。数名の人が降りていったようでした。
八重子はまた眼をつぶりました。
軽く、桐の吾妻下駄らしい音が、八重子の前に止りました。
「あの……失礼ではございますが……。」
まっ黒な七分身のコートに、細そりと背高い体をつつんで、肩から垂らした臙脂色のショールの端にハンドバッグを持ち添えた、丸顔の若い女が、小首を傾げていました。
「部隊から、面会のお帰りではございませんでしょうか。」
あたりを憚るような低い声でした。
八重子は顔を挙げました。ひたと見つめてる大きな眼付にぶつかりました。その大きな眼付の無表情とも言えるぶしつけな平静さが、八重子を夢の中のような気持にさせました。八重子も低い声で答えました。
「はあ、左様でございますが……。」
「もしも、宿にお困りのようでございましたら、お粗末なところではありますけれど、どうにかお休みにだけはなれますから、おいで下さいませんか。」
八重子はなんとなしに立ち上って、お辞儀をしました。
「ほんとに困りぬいていたところでございます。帰りの汽車の切符が買えなかったものですから。」
「いつも、朝のうちに売りきれてしまうんでございますよ。」
七分コートの女は、ゆっくりと駅を出てゆきました。八重子もそれについて行きました。
町筋を通りぬけ、街道から細道へ折れこみました。いつのまに取り出されたのか懐中電灯の光りが、ちらちらと、足許をてらしました。相手の女の足袋の白さが、八重子には、眼にしみるように思われました。
「道がわるうございますよ。」
ゆるい下り坂になって、女はふり返りましたが、にこりともしない無表情でした。小石交りの道なのに、その吾妻下駄の音も殆んどしませんでした。ただ、冷たい夜風に乗って漂う仄かな香水の香りだけが、八重子には、人間らしい頼りでした。
生垣があり、大きな木立があり、灌木の茂みがあり、野原には薄の穂が出ていました。
「あ。」
八重子は思わず声に出して、足をとめました。ゆるい傾斜地のかなた低く、星明りにぼーと、広い水面がありました。
いっしょに足をとめてふり向いた女へ、八重子は言いました。
「河でしょうか、海でしょうか……。」
「ご存じありませんの。沼……というより、湖水でございますよ。」
この沼の広々とした水面が、生き物のように息づいてるらしく思えて、八重子は連れの女へ身を寄せました。しぜんに、足が早くなりました。
静まり返ってる大きな家のまわりを、二曲りして、小さな平家の前に出ました。
低い生垣のなかの砂道を、女は小刻みに歩いて、戸を叩きました。暫く待って、また戸を叩きました。
「みさちゃん、あたしよ。」
戸に格子、狭い三和土、障子、そのとっつきの三畳を通ると、調度の類がきりっと整ってる茶の間でした。
「こんなところで、失礼でございますけれど、どうぞ、御自由になすって下さいませ。」
女は立膝で、長火鉢の中の火をかきたてました。それからコートをぬぎ、小揺ぎもなさそうな姿勢に坐り、器用な手付で巻煙草に火をつけました。
八重子の夢心地は、深まるばかりでした。それを、ほっとくつろいだ吐息にはきだしますと、眼の前のことだけがまざまざと、恰も鏡に映ったようにはっきりと見えました。
長火鉢の磨きすました銅壺、黒塗りの餉台、茶箪笥の桑の木目、鏡懸けの友禅模様、違い棚の真中にある大きな振袖人形、縁起棚の真鍮の器具……そうした室の中に、みさちゃんと呼ばれた小女は、行儀よくまめまめしく立働きました。脱ぎ捨てられたコートをたたみ、茶をいれ、丸い餅を焼きました。
女主人は、小揺ぎもなくぴたりと坐って、冷淡かと思えるほど表情少く、口数もごく少く、ただその身ごなしに情味をたたえていました。背の高い細そりした体に、頬の豊かな丸顔なのが、人形めいたやさしさを感じさせました。そして彼女は妙に、八重子の方へ真正面に向かず、ただ大きな眼付だけをひたと向けました。
金糸の通った縞御召の肩に、紋付の羽織をずらせ、軽くパーマをかけた髪を、真中から分けてふっくらと結えてる、この女主人は、幾歳ぐらいだろうかと、八重子は迷いました。三十歳ほどにも思えますし、二十歳ほどにも思えました。
海苔巻きの丸餅に熱い茶を、つつましやかに味いながら、話はとぎれがちに、目前のこととは縁遠い事柄へとばかり走りました。沼で取れる魚類のこと、野菜や果物のこと、芝居や映画のこと、菓子のこと、草花のことなど……。そしてこの女主人は、あらゆることを知ってはいるが、肝腎な何かを知らず、つまりは何にも知っていないように、八重子には感ぜられました。
「お疲れでございましょうから……。」
言われてみると、もう十時を過ぎていました。
室を一つ距てた奥に寝床がのべてありました。八重子は長襦袢のまま、八端の柔い夜具にもぐりこみました。
夜の静寂の音とも細雨の音とも知れないものが、耳について、なかなか眠れませんでした。
――いったい、ここはどういう所なのであろうか。
枕頭の二燭光の雪洞が、へんに異境的な情緒をそそりました。八重子は幾度も、眼を開けたり閉じたりしました。東京の家のこと、兵営の梧郎のこと、夜の停車場のことなどが、すぐそこに宙に浮き出して、背景は遠くぼやけ、そのぼやけた中に彼女自身もありました。
長い間眠られず、そしてうとうとしたと思うと、また眼がさめました。それを幾度か繰り返したようでした。
なにかはっきりした物音がしました。人声も聞えました。八重子はへんにびっくりして、起き上りました。
茶の間へ出て行くと、女主人はもう起きていて、身扮もととのえていました。八時になっていました。
外は深い霧でありました。ただ仄白いものが濛々と天地を蔽うて、何の見分けもつきませんでした。
「昨晩は、お眠りになりましたかしら。」
女主人は首を傾げて、昨夜とちがい、顔に笑みを漂わせていました。
洗面からすべて、気を配った待遇でした。辞し去る合間もなく、食卓がととのえられて、梅干にお茶、味噌椀からワカサギに海苔と、気持よい朝食でありました。
女主人もいっしょに食卓につきました。
「秋になりましてからの、こんな霧は珍らしゅうございますよ。」
彼女は箸を休めて、硝子戸越しに外を見やりました。
ふだん着の、どことなく淋しげな、彼女の姿を見ていますうち、八重子は、昨夜からまだ一言も、お互いの身の上については触れていないのを、胸に浮べました。そして、そちらへ話を向けますと、相手は、巧みに外らしてしまいました。それでも彼女がもとは芸妓だったこと、今では歌沢の師匠をしていて、僅かな弟子があるので、三日に一度は東京に出ていること、などを
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