八重子は知りました。
ただ、彼女はしんみりと、こんなことを言いました。
「あたくし、過去に、いろいろと、人様に御迷惑をかけたこともございます。それから、自分で、胸の晴れないこともございます。そういうことのために……いいえ、ただ退屈すぎるのでございましょうか、部隊に面会に来られました方で、お困りなさっている方を見受けますと、時たま、泊めてあげたくなりますの。」
そして彼女は暫く口を噤みましたが、俄に、頬をちょっと赤らめました。
「ほんとに、こんなところへ御案内しまして、却って、御迷惑でございましたでしょう。許して頂けますでしょうか。」
彼女は微笑しました。八重子は、感謝の言葉を洩らしかけて、涙ぐみました。
なにか、垣根が取れた気持で、八重子は彼女の名前を尋ねましたが、彼女は笑って、教えませんでした。八重子は自分の小さな名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]差出しました。
佐伯八重子……その名前と処番地とを、女主人は、ふしぎなほど注意深く眺めていました。それからまたふしぎに、前よりは一層言葉少なになりました。
八重子はなにがしかの金を紙に包みかけましたが、さもしい気がしてやめました。そして、少女が朝早く買ってきてくれた切符の代と、少女への謝礼包みだけにとどめました。
「こんどまた、御礼に伺わせて頂きます。」
お辞儀をしながら、なぜともなく八重子は涙ぐみました。
女主人は門口まで見送りました。小川という表札だけを八重子は頭に留めました。少女が街道まで見送ってくれました。
霧はまだ深く、沼も見えなければ、あたりの様子もよく分りませんでした。それでも、中空は晴れてゆき、朝日の光が乳色に流れていました。
佐伯八重子は、沼のほとりの女を訪れるつもりで、進物などのことも内々考えていましたが、主人の亡い身にはいろいろ用事も多く、時局も激しく動いて、なかなかその意を果せませんでした。
梧郎の部隊は果して、まもなく他方へ出動することになりました。内地か外地かも分らず、通信は途絶えてしまいました。
やがて、東京も空襲に曝されるようになりました。戦災は次第に広い範囲に亘り、至る所に焼跡が見られました。東京に踏み留まってるだけでも、容易なことではありませんでした。
だいぶ年下で従弟に当る深見高次が、南方で戦死したとの公報も、空襲中に到着しました。
それからあの八月十五日、日本の降伏に次ぐ新回転の日が来ました。一ヶ月して梧郎は復員になり、九州から戻って来ました。
慌しい月日が過ぎて、七五三の祝い日に、今年七歳の末娘を持ってる山田清子のところへ、佐伯八重子は顔を出しました。清子は深見高次の実の姉で、深見高次の戦死のこともありますし、子供も数人あることですし、時勢をも考えまして、七歳の娘に御宮詣りはさせませんでしたが、家庭内で、ささやかな祝いを催しておりました。
その午後の一刻、佐伯八重子は、山田清子の私室で、久しぶりに二人きりで語らう隙を得ました。
室内には、さまざまなものが雑然と取り散らされていました。その中に、写真帳が数冊ありました。八重子は機械的にそれをめくっていました。話の方に気を取られていました。それでも、あるところで、突然、手をとどめ話をやめて見つめました。
島田髷に結った若い女の半身、洋髪に結った二人の女の舞台に坐ってる姿、二葉の写真が、そこにありました。それが、紛うかたなく、沼のほとりのあの女でした。殊に、舞台の方、金屏風をうしろにして、三味線をかかえた年増の人をそばに総のさがった見台に向って、ぴたりと、小揺ぎもなく坐っていますのが、あの女でした。
八重子はその写真を指し示しました。
「これ、誰ですの。」
清子は、写真の方ではなく、八重子の顔を眺めました。
「あら、御存じありませんの。寅香さん……それ、高次さんのあのひと……。」
「これが……。」
歌沢寅香、本名は小川加代子、かつて親戚や友人間に問題となった柳橋の芸妓で、深見高次の愛人でありました。
彼女と高次との間がどういうものであったかは、本人たち以外には分りません。表立った事柄としては、高次が周囲の反対を押し切って、彼女と結婚すると宣言したことでした。それから、周囲の反対が高まるにつれて、高次の意志もますます強固になり、一時、彼女に御座敷を休ませて、二人で旅に出たりしたこともありました。それから、花柳界の閉鎖や、高次の召集など、戦争の渦中に彼等も巻きこまれました。高次は出発に際して、かねてから二人の間のひそかな同情者たる姉の清子に、二葉の写真を預けましたきりで、彼女の生活や居所については何にも明かしませんでした。――それらの事件の間中、彼女の名前は、歌沢の方の名取たる寅香とばかり呼ばれる習わしになっておりました。
八重子は長く写真を見つめておりましたが、溜息のように言いました。
「このひとが、あの、沼のほとりのひとですよ。」
「まあ……夢の中のようなお話の、あのひと……。」
二人は顔を見合せました。
「高次さんの戦死のこと、知ってますかしら。」と清子は言いました。
「訪ねてみましょう。」と八重子は言いました。
そして数日後、二人はひそかに打ち合せて、二人だけの秘密を胸に懐いてる思いに軽く昂奮して、出かけました。
秋晴れのよいお天気で、冷かな微風も却って快く思われました。
八重子はわざわざ、あの時と同じ服装をしていました。清子はなるべく目立たぬ服装をしていました。
駅から街道沿いの町筋、そこまではよく分りましたが、その先が、八重子の記憶にはすっかりぼやけていました。往きは暗い夜の中をあの女に導かれ、帰りは霧の中を少女に導かれて、まるで夢の中のようだったのです。
同じような小道が幾つもあり、同じような生垣や家が幾つもありました。
傾斜面のつきるところ、びっくりするほどの近くに、広々とした沼があって、日の光に輝いていました。そこから、冷たい風が吹きあげてきました。藪の茂みがそよぎ、中空高い落葉樹の小枝が震えました。薄の穂がまばらに突き立ってる野原が、あちこちにありました。
肌寒い思いで、草履の足を引きずって、尋ねあるきましたが、それらしい家は見当りませんでした。
「たしかにこの辺でしたの。」
「そう思いますけど……。」
心許ない短い問答きりで、二人はあまり口を利きませんでした。
人の住んでいそうもない、静まり返った家ばかりで、通りがかりの人影も見えませんでした。
二人は町筋に引き返しました。荒物屋、煙草屋、それから蕎麦屋と、三軒に尋ねてみました――。小川加代子というひと、歌沢の師匠をしている寅香というひと、少女を使って静かに住んでる若い女のひと……。
それを、どこでも、誰も、一向に知りませんでした。こんな田舎では、どんな些細なことでも皆に知れ渡ってる筈なのに、彼女のことについては、何の手懸りもありませんでした。
「おかしいわね。」
「ほんとに……。」
二人はまた、ぼんやり沼の方へ行ってみました。そして水際まで降りてゆきました。冷たい風が、間をおいて、水面を渡ってきますきりで、人影も物音もなく、小鳥の声さえ聞えませんでした。
「どうしたんでしょうね。」
と八重子は呟きました。
「なんだか寒けがしますわ。」
と清子は呟きました。
じっと見ていますと、平らな水面が、真中から徐ろに膨らんでくるようでした。眩いに似た感じでありました。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「思索」
1946(昭和21)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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