めました。そして、少女が朝早く買ってきてくれた切符の代と、少女への謝礼包みだけにとどめました。
「こんどまた、御礼に伺わせて頂きます。」
 お辞儀をしながら、なぜともなく八重子は涙ぐみました。
 女主人は門口まで見送りました。小川という表札だけを八重子は頭に留めました。少女が街道まで見送ってくれました。
 霧はまだ深く、沼も見えなければ、あたりの様子もよく分りませんでした。それでも、中空は晴れてゆき、朝日の光が乳色に流れていました。

 佐伯八重子は、沼のほとりの女を訪れるつもりで、進物などのことも内々考えていましたが、主人の亡い身にはいろいろ用事も多く、時局も激しく動いて、なかなかその意を果せませんでした。
 梧郎の部隊は果して、まもなく他方へ出動することになりました。内地か外地かも分らず、通信は途絶えてしまいました。
 やがて、東京も空襲に曝されるようになりました。戦災は次第に広い範囲に亘り、至る所に焼跡が見られました。東京に踏み留まってるだけでも、容易なことではありませんでした。
 だいぶ年下で従弟に当る深見高次が、南方で戦死したとの公報も、空襲中に到着しました。
 それからあの
前へ 次へ
全17ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング