のをただ少年にも分るようにという工夫だけのもとに書かれたもののようである。だからそれは、大人の文学――而も興味中心の低俗な大人の文学――の延長もしくは歪曲にすぎなくなる。随って少年にとっては、如何に道具立に苦心が払われていようと、つまりは人形芝居であり、如何に道徳や教訓がもりこまれていようと、つまりは模型であって、生きた血の通ってるものとはならない。
固より、大人の立場から書かれた少年文学でしかも立派なものが、ないとは云えない。然しそれは大人にとって立派なのであって、少年にとってもそうであるかどうか疑わしい。大人にとっても少年にとっても真に立派なものがあるとすれば、それは中性的なもの、なお云い得るならば神性的なものであって、それこそ凡そ芸術の極致であろうが、茲ではそういう最高のもののことを云ってるのではない。
一体世間では、嬰児は嬰児として大切にされるけれど、次に早くも子供の時から、そしてなお少年になるに及んで、あらゆる点で、大人的なものを如何に多く押しつけられてることか。彼等の眼が早期に大人的となり、彼等の情意が早期に大人的となり、即ち彼等が早熟することが、如何に多いか。之を称し
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