少年の死
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)其処《そこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|棟上《むねあ》げに
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21]
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十一月のはじめ夜遅く馬喰町の附近で、電車に触れて惨死した少年があった。それが小石川白山に住む大工金次郎のうちの小僧庄吉だと分ったのは、事変の二日後であった。惨死はこの少年の手ではどうすることも出来ない運命の働きであったらしい。
庄吉は巣鴨の町外れの小百姓の家に生れて育った。三つの時に母を失い、九つで父に死なれたので、彼はその時から父の遠縁に当る金次郎の家に引取られた。
金次郎の家は極めて貧しい其日暮しであったので、庄吉は其処《そこ》に引取られてからは小学校も止してしまった。そして特別な金次郎の計いで年期にも上らないで、よく彼に連れられて棟梁の大留《だいとめ》の仕事場に行って大工の見習をし、または家で使歩きをした。
彼は何も分らないでよく働いた。そしてよく眠った。毎朝金次郎の妻のおせい[#「せい」に傍点]は彼を揺り起すのに眉を顰めた。
「どうしてこう寝坊だろうね、肥桶《こえたご》のくせに。図々しいったらありゃしない。」と彼女はよくいった。
「肥桶《こえたご》」というのがいつしか家での彼の異名となっていた。
「肥桶《こえたご》起きろよ!」と長男の堅吉がよく怒鳴った。
然し庄吉は二三度起される迄は床から出なかった。金次郎夫婦とその二人の子供と一家四人枕を並べて寝る六畳の隣りの格子先の四畳半に彼は寝かされた。枕頭の煤けた櫺子窓からほの白い夜明けの光りが射込むのを見ながら、うとうととして表を通る人の足音や車の音を聞いているのが、彼には一番快い時間であった。彼はよく櫺子窓の先の蜘蛛の巣を払い落した。それから毎朝表の足音や車の音をききながら、新聞屋だろうかとか牛乳屋だろうかとか考えた。それは実際巣鴨の場末の田舎に居た「肥桶《こえたご》」の嘗て知らない楽しみであった。人生の珍らしさと労働の健かさとが彼の心に夜明けと共に忍びこんで来るのであった。
「庄吉の野郎毎朝眼が覚めてるのに起きないんだよ。」とおせい[#「せい」に傍点]は夫にいった。「図々しいったらありゃあしない。お前さんが黙ってるからつけ上るんだよ。少し躾《しつけ》をしてやらなくちゃ困るじゃないかね。」
金さんはただ首肯《うなず》くばかりであった。彼は棟梁の仕事場から帰ってくると毎晩酒を飲んで、そのまま畳の上に寝転んで鼾をかいた。それを庄吉は蒲団の中に入れてやらなければならなかった。
「小父《おじ》さん、小父さん! 寝るんだよ。」そういって庄吉は彼の頭を持ち上げた。
小父さんは薄眼を開いて庄吉の顔を見た。それから「うむよし。」といって床の中にはいった。彼の横には堅吉と繁《しげる》とがもう眠っていた。
それから庄吉は小母《おば》さんの側で糊をして内職の封筒をはった。彼が眠むそうな眼をしばたたいていると、小母さんはよく斯んなことをいった。
「もっとしっかりおしよ、何だよ眠そうな眼をして。お前さんはもう十歳《とお》にもなるんだからちっとは稼ぐ事も覚えなくちゃいけないじゃないかね。お前さんのためには私達どんなに苦労してるか知れないよ。特別に大留《だいとめ》さんにお願いして年季にも上げないでさ、うちから仕事場に通えるようにしてあげてるんじゃないかね。私達にだって子供があるしね、並大抵じゃないよ。」
庄吉は黙ってまた仕事の手を早めた。然し心のうちでは年季に上った方がいいと思った。
大留のうちには少年の心をそそるようなものがいくらも在った。新しい木材の香《か》や鑿の音も彼の心を動かした。面白い音を出す柱時計やぴかぴか光っている道具類や棟梁の大きな銀の煙管なども彼の心を引いた。そして其処には彼を「肥桶《こえたご》」と呼ぶ人も無かった。皆が快活に勇ましく働いていた。
彼は其処で鑿と鋸とを持つことを教わった。手斧《ちょうな》や鉋は中々許されなかった。然し彼は仕事に少年としては意外の悧発さを示した。そして自分でも、他人の手に成った螺鑽《おおぎり》の穴を辿って角材に鑿を入れることがもの足りなかった。彼はともすると小父さんの螺鑽をいじってみたくなった。
棟梁は螺鑽を持っている彼の姿を見て微笑んだ。
「今少し辛抱しなくちゃいけない。今に一人前にしてやるから。これで鑽《きり》を使うことは中々難しいんだ。頭が歪《ねじ》けないでしっかりしていないと鑽は真直に入《はい》らないものだ。性根を真直にすることが第一だ。」
庄吉にはその意味がよく分らなかったけれど、常々の棟梁の言葉からして、道具を使うのも単に使うだけでないことが朧ろげに呑込めていた。そして頭領は何かしら偉《えら》いものを持っているように思えてきた。皆の者がいつも黙ってその云うことを聞いているのが、本当だと云う気がしてきた。
何時か庄吉も一度|棟上《むねあ》げに連れて行って貰ったことがあった。大留《だいとめ》の下についてる大工達の外に多くの仕事師達もやって来た。まだ新鮮な香りのする白木の桁構えのうちには、健やかな気分が漲っていた。頭《かしら》が上にあがって音頭《おんど》を取った、そして大勢の衆の木遣りの唄につれて棟木がゆるゆると上に引き上げられた。庄吉は勇ましい頭《かしら》の姿を見た、それから御幣《ごへい》と扇と五色の布とがつけてある大黒柱の神々しさを見た、そしてまた革の印絆纒《しるしばんてん》を着て少し傍に離れて立っている棟梁《とうりょう》の鹿爪らしい顔を見た。新しい印絆纒を着せて貰ったことよりもそれらのものが一層庄吉の心を引立たした。
庄吉は棟梁の側に行ってからこう云った。
「親方……。」
「何だい?」と答えて棟梁は庄吉の顔を見返したが、庄吉が其儘下を向いて了ったので唯|微笑《ほほえん》でみせた。
然しまた棟梁のことを何かと影口をきく者もないでもなかった。大留のうちには惣吉に専太という二人の年季奉公の小僧が居た。で庄吉は自然に彼等の方に親しんで行った。特に金さんが得意先に出かけて行った時や、何かにつけがみがみ叱りつける彦さんが居ない時など、彼は小僧達と一緒にこっそり薩摩芋を買って食べたりした。お小遣銭《こづかい》を持たない庄吉がいつも買いに走らせられた。
「うちの親方はぐずなんだい。」と惣吉はよくいった。「こないだの坂の上の旦那の家の建増しを大万《だいまん》の方に取られちゃったじゃねえか。働きが足りねえんだよ。俺が親方位になりゃあ、区内の仕事は一人で立派に引受けて見せてやるんだがな。」
「だが親方は偉《えら》いんだい。」と庄吉はいった。
「偉いのは偉いさ。ただ働きが足りねえんだよ。」
庄吉にはその意味がはっきり分らなかった。惣吉は得意そうにこんなことをいい出した。
「こないだね、親方が例の処へ行って朝遅く帰って来たもんだから、お主婦《かみ》さんに小言を喰って喧嘩をおっぱじめたんだ。だが後でお主婦さんにあやまっていたよ。甘《あめ》えんだな。」
庄吉は妙に反抗したいような気が起ったが、別に何とも答えないで専太の方をじろりと見た。専太はにやにや笑って惣吉の話をきいていた。一体専太は始終休みなしによく働くばかりの小僧だったが、いつもにこにこしてるのみで口数の少ない少年だった。それに反して惣吉は横着な影日向をする少年だった。そしていつもお主婦さんの機嫌ばかり取ってることが庄吉にも分っていた。お主婦さんから時々、内証でお小遣を貰うことを庄吉も聞かされたことがあった。「俺は働きがあるんだい。専太の野郎とは異《ちが》うんだからな。」と彼は云った。「惣吉や。」とお主婦《かみ》さんは呼んだ。そして彼はよく昼過ぎのお茶受けを買いにやらされていた。
然し庄吉は何だかお主婦さんに昵《なじ》めなかった。
「お前年季に上りたいんじゃないのかい。」といつかお主婦さんは彼の眼の中を覗き込むようにして尋ねたことがあった。「私もそれがいいと思うんだがね。……然し小母《おば》さんは随分のしっかり者らしいね。何かつらいことがありはしないかい。あったらそうお云い、私が悪いようにはしないから。でももう暫く辛抱するんだね。そのうちにどうにかしてあげるよ。うちの親方もお前には見込があると云っているんだからね。」
庄吉はそう云われたことが嬉しいよりも寧ろ何となく恐ろしく思えたのであった。自分の未来のことを考えると、触れてならないものに触れたような恐しさが後で萠した。そして大留《だいとめ》のうちにも種々な術策が方々で行なわれていることが漠然と彼の頭に入《はい》って、それが一層彼の心を臆病ならしめた。
或日の夕方大留の仕事場から帰って来て台所口の方に廻ろうとすると、その日先に帰った金さんがおせい[#「せい」に傍点]と何やら声高に話している声がして、庄吉という言葉がふと彼の耳に入《はい》った。
「大留《だいとめ》さんが見込がありそうだというんだ。」
「そんなことが子供のうちから分るもんかね。」
「いや兎に角器用なんだ。今までに一度だって怪我もしなかったじゃねえか。」
「何をいうんだよ、お前さんは。怪我でもされて高い薬代を取られた日にはかなわないじゃないかね。」
「まあそれもそうだが、大抵の者あ怪我の一二度はするものさ。……兎に角|大留《だいとめ》さんは多少見所がありそうだから年季に上げたらどうだというんだ。それにお主婦《かみ》さんが中々執心らしいんだ。」
「なにあのお主婦さん古狸だから何をいうか分りゃあしないよ。それに年季に上げたらお給金は貰えないしさ、手斧《ちょうな》を使うようになって怪我でもしてごらんな、うちで黙って見てもおれないじゃないかね。も少ししたら私はどっかの店に小僧にでもやったらと思ってるんだよ。うちにも堅吉が居るんだし、あれの方を学校がすんだら年季に上げたいんだよ。」
「それもいいだろう。」
「お前さんはいつもそれだからいけないんだよ。いつもどうでもいいだろうと来るんだものね。お前さんがしっかりしてくれなくちゃ困るじゃないか。どうしてそう愚図《ぐず》なんだろうね。お酒ばかり喰《くら》ってさ……。」
裏口に身を寄せてきいていた庄吉は、そこでそっと足音を盗んで表に出た。外にはまだ暮れ悩んだ薄明るみが湛《たた》えていて、空には淋しい星が一つ二つ輝いていた。
庄吉は暫くの間通りを歩き廻った。小さな家の立ち並んだ狭い裏通りには、一日の労苦を終えた人々の安らかな家庭の団欒《だんらん》の気がこもっていた。その中で庄吉は広い社会のうちにぽつりと置かれた自分の小さな運命を漠然と心に浮べたりした。
庄吉は淋しい心でうちに帰った。
「何を愚図々々していたんだい。こんなに遅くまで。」と小母さんは怒鳴った。
「親方のうちに用があったから。」
「どうだか分るものかね。大方活動の前にでもぼんやり立っていたんだろう。仕様のない餓鬼だね。早く御飯でもおあがりよ。」
庄吉は一人《ひとり》で食《く》いちらされた餉台《ちゃぶだい》に向った。
その晩彼は封筒はりをしながら、死んだ父のことを思い出したりした。然し別にそれも懐しいものでもなかった。ともするとしっかりした大留の顔がそれを消して彼の心に浮んできた。
毎朝庄吉は八時頃弁当を持って大留の仕事場に通った。そして夕方家に帰って来た。小父さんと一緒の時も、又そうでない時もあった。そして幾らかの心附けの金が彼の為に小父さんの手に渡された。
庄吉は夕方一人で少し早めに帰るのが一番嬉しかった。一寸廻り道をして活動の看板を見に行くこともあった。また華やかな商店の窓を覗いてまわることもあった。然し彼が一番嬉しかったのは家の向うのみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんに逢うことであった。漸くお垂髪《さげ》にしたばかりの愛くるしい顔が彼の頭にはっきり刻まれていた。
仕事場に通
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