わなかった或日庄吉は、堅吉や繁やまた近所の子供等が集まってみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんの護謨毬で遊んでいるのを、側に立って見ていたことがあった。みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんはいつも種々な玩具《おもちゃ》を持っていてそれを皆に貸すのであった。其日誰かが投げた毬は、ころころと転《ころが》って池田さんの板塀の中に入《はい》った。板塀の下の方は棧が二つしてあってすいていたので、毬は外からよく見えた。
皆が代る交《がわ》る手を差し出したが届かなかった。
庄吉はそれを見ると、自分で進んでいって「俺が取ってやる。」と云った。
大勢の子供達は只黙って眼を見合った。
庄吉は腹這いになって棧の下に身を入れた。そしてずんずん入《はい》って行って、漸く足先ばかりが塀から覗いた位になって毬に手が届いた。で、片手に毬を持って出ようとすると堅吉が彼の足の上に腰掛けた。
「みんな腰掛けてみろ、いい腰掛だあ。」
それで皆がどっと笑った。
庄吉は棧の下に身体を押されて身動きが出来なかった。「覚えてろ!」と彼は叫んだ。そして片手に土塊《つちくれ》を掴んで投げつけた。
子供達は逃げていった。そして向うの隅から「肥桶《こえたご》やあーい」と声を合した。
庄吉は真赤な顔をして立ち上った。すると其処にみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんが一人立っているのを見た。彼は黙って護謨毬を彼女の手に渡した。
みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんは黙って彼の顔を見上げたが、「ありがとうよ。」と大人ぶった口を利いて、そのままばたばたと家の方へ駆けて行った。
妙な喜びと悲しみとが庄吉の胸の中に乱れた。それでも彼は自分のうちにまた或る悲痛な力を感じたのであった。
その晩庄吉は小母さんからひどく叱られた。
「お前さんは今日泥棒の真似《まね》をしたってね。へんさすが生れだけあって違った者だね。だが私の家に居る間はそんな真似は止《よ》しておくれよ。此度またしたらもう家に置きゃあしないからそう思っといで。碌でなしの癖に悪いことばかり覚えやがって、私達の顔にもかかわるんだよ。」
庄吉は横目でちらと見やると、堅吉は片隅に何知らぬ顔して坐っていた。
然しそれでも、庄吉はその時から特にみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんが好きになった。夕方など彼女が他の友達と遊んでいる時、彼はよく物影から顔だけ出して彼女の方を見ていた。自分の身体を物影に潜めることもいつしか彼に或る不思議な喜びを与えるようになっていた。
そうした庄吉の姿を見出すと、みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんはいつも急いで逃げて行った。
彼女が逃げてゆくと、庄吉は急に我に返ったような気持ちを覚えた。自分の身体を潜める神秘な楽しみが急に何処《どこ》かに消散してしまって、みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんが逃げてしまった後の淋しい気持ちが彼に明かに感じられて来た。
然し彼はまた、いつか小父さん夫婦の話を立聞した頃から、次第に立聞きの癖がついた。大留《だいとめ》の仕事場でも、どうかすると彼は物影から人の話や素振りに注意するようになった。物事の裏面が彼の心を不思議に誘惑した。そして彼は自ら知らないで、其処に自分の小さな運命を朧ろげに見守っていた。彼は一種の不安な恐ろしさと或る神秘な喜びとを心に感じた。
その年夏に入ると殆んど毎日のように雨が続いた。そして秋に入っても雨は止まなかった。たまに二三日晴天があるかと思うと、それも多くは半日は曇天かなんかであった。
この雨のために方々で非常な打撃を蒙った。大留の方もその数に洩れなかった。戸外の仕事は殆んど出来なかったからである。外廻りの仕事に行った人達は幾度も雨に妨げられて空しく帰って来た。また雨を気遣って普請を延ばす人も多かった。それで仕事場の方の用も少なくなった。
「ほんとに仕様がない天気だなあ。」とお主婦さんは口癖のように云った。
「なに一年中も続く雨じゃあるまいし、そのうちに霽《あが》るだろうよ。」
大留さんはそう云って平気な顔をしていた。
然し仕事場の方は少しずつ人数が減《へ》っていった。倉さんや常さんなどは殆んど顔を見せなかった。そして金さんはその頃から暫くの予定で砲兵工廠に出るようになった。
庄吉は相変らず大留の仕事場に通っていた。それは、金次郎がまた造兵の方を止めて大留の世話になる時のためと、堅吉が来年の春小学校四年を終えて大留に年季に上る時とのために、大留の機嫌を損じないようにというおせい[#「せい」に傍点]の算段からであった。何れは商店の小僧にやらるるのだということが庄吉にも呑込めてきた。
庄吉はよく外に佇《たたず》んで、家の中の話を立聞きした。
或日の夕方彼はまたそっと自分の家の裏口に忍び寄った。中はいつもと違って妙にひっそりとしていた。「何かあったに違いない」と彼は思った。長い間立っていたが何の物音もしないので、彼は我を忘れてそっと台所口から覗こうとした。妙な好奇心が露《あら》わに彼の胸を躍らした。
その時急に彼の肩口を掴《つか》んだ者があった。ふり返るとおせい[#「せい」に傍点]であった。彼女は顔をてかてかさして手に石鹸箱《しゃぼんばこ》を下げていた。
庄吉は無言のまま家の中に引きずり込まれた。
「何をしていたんだい。さあお云い。」と小母《おば》さんは怒鳴った。
「何を図々しく黙っているんだい。云わなけりゃあ、こうしてやる。」といって彼女は庄吉の右手をぐんぐん捩じ上げた。「大方何か物を持ち出そうとでも思ったんだろう。へんお前さんにそんなことをされるような間抜けじゃないよ。」
庄吉は痛さにしくしく泣き出しながらいった。
「小母《おば》さん堪忍しておくれよ。誰もいないんで俺は恐《こわ》くなったんだい。それで中を覗いてみたんだい。」
「よくそんな白々しい嘘がつけたもんだね。私にはちゃんと分ってるよ。小父さんに頼まれて何か持ち出すつもりだったんだろう。小父さんにそう云うがいいや、私あそんな間抜けとは違うからね。」
庄吉は何と弁解しても許されなかった。そしてその晩御飯も食べさせられないで、しくしく泣きながら冷たい床の中に入《はい》った。
おせい[#「せい」に傍点]は金さんが造兵から帰ると、訳も云わないでぷんぷん怒っていた。
「造兵の女《あま》っちょの処へ行っちまうがいいや、飲んだくれの間抜けなんか私は真平《まっぴら》だよ。」
「何を云うんだい、馬鹿野郎。」と金さんも怒鳴った。
「へん私はどうせ馬鹿だろうさ。」
金さんは自分で立って行って、台所で冷酒をコップで煽《あお》った。
金さんが造兵に出る様になってからそういう喧嘩は珍らしくなかった。又実際、夜勤の方に廻る様になると、其処に入り込んでいる怪しい女にひっかかることもよくあるらしかった。朝彼は酒ぐさい息をしてよく帰って来た。そんな時は屹度、四時頃彼がまた夜勤に出かける時一騒動が起るのであった。
庄吉はそんなことを傍《はた》からじっと見ていた。そして彼の心に映ずる世間も次第に複雑になっていった。
大留の仕事場でも彼は物影から種々な話をきいた。彦さんと音さんはよく棟梁の居ない時なんか面白い話をして笑い合っていた。
「れこ」とか「張る」とか「なか」とかいう言葉がよく彼等の口から洩れた。
庄吉はいつしかそれらの言葉の意味を覚えてしまった。
「おい庄吉、」と小僧の惣吉は呼びかけた。「お前の小父《おじ》さんの妹はお女郎だそうだい。親方がちょいちょい寄ることがあるんだとよ。」
そういって彼は妙な薄ら笑いをした。
然し庄吉はまた、大留の遊びを余り深入りさせないために惣吉は内々お主婦《かみ》さんから大留につけられているのだ、ということをも知っていた。
そのお女郎という金次郎の妹が一度家に帰って来たことがあった、大きい髷に結って白く鉛白をつけ、柔いものを着て草履をはいていた。庄吉が大留の仕事場から帰った時は、もう皆で酒を飲んでいた。そしてその晩は金さんも飲めるだけ酒を飲ませられた。庄吉は唇に杯を持ってゆくその女の少し下品な険のある横顔を眺めていた。
「お前さん大変|怜悧《りこう》だってね。」と彼女は庄吉の方を向いて云った。
「なにね、悪いことばかりに賢こくて始末に終えないのさ。」と小母《おば》さんは遠慮もなく云ってのけた。
「それはね子供のうちはどうせ悪戯《いたずら》ばかりしたがるもんですよ。でも屹度いい大工になるでしょうよ。棟梁もそう云っていましたよ。」
「あらお前さん棟梁に逢ったの?」と小母さんは不思議そうに眼を丸くした。
「いえね。」と云って彼女は一寸言葉を切ったが、「こないだ一寸お寄りなしたから。」
「あそこへかい。」
「ええそうよ。」
小母《おば》さんはじっと彼女の顔を窺っていたが、それから金さんの方をじろりと見た。
「俺も少しお前の処へ遊びに行くかな。」と金さんは云った。「まさか振るようなこともあるまいね。」
「あらいやだね、兄さんは。」と云って彼女は蓮っぱな笑いを洩らした。
金さんはもうすっかり酔っていた。そしていつしか畳の上にごろりと横になって鼾をかき出した。
「これだから困るのよ。」
「そうね。」と彼女も云った。
それから小母さんは、金さんが酒ばかり飲んで困ることや、家の中の経済の困難なことなどをくどくどと彼女に訴えていた。然し造兵の女のことや庄吉の未来のことなどに就いては一言も云わなかった。
その晩庄吉は、表の四畳半にその妹さんと床を並べてねたのが一番嬉しかった。
「お前さん寝坊だってね。あたしもそうなんだよ。あした遅くまで寝坊くらべをしようね」
と彼女は床の中で云った。
然しその翌朝庄吉は常よりも早く起き上って何やかや用をした。仕事場に出かけるのが一番いやだった。
金さんの妹は庄吉を物影に呼んだ、そして五十銭銀貨を一枚くれた。
「黙《だま》っておいでよ、ね。そして辛抱して働くんだよ。親方にも私からよく云っておいてあげるから。」
「親方はよく姉さん所へ行くの?」
「ああよくおいでなのよ。」
庄吉はその日銀貨を大事そうに帯にくるんで仕事場に行った。時々|大留《だいとめ》さんから手間賃に貰った金はみんなそのまま小母さんに渡してしまって、彼は一文も小遣を貰わないのであった。そして繁などは「かあちゃん、一銭おくれよ。」といっては叱られながらもその金を自由に使っていることが、彼にはいまいましかった。然しその日は、もうそんなことはどうでもいいような気がした。
「おい今日は俺が奢《おご》るよ。」と庄吉は其日お茶の時に密《そっ》と惣吉に云った。「何でも好《す》きな物を云えよ。」
「幾許《いくら》持《もっ》てるんだい。」と惣吉は不思議そうな顔をした。「そんなら餡麪麭《あんパン》を買ってこいよ。」
庄吉は十銭だけ餡麪麭を買って来て皆で食べた。
金さんの妹が帰って行くと庄吉は急に淋しさを覚えた。そして今迄知らなかった強いお化粧の匂いがいつまでも彼の鼻に残っていた。彼はその頃から、道を歩くにもじっと人の顔を覗いて通った。首を少し前につき出して、通る人の顔や懐の当りをじっと見てやるのが、何だか嬉しくてたまらなかった。そっと覗き見らるるようなものが至る所にあった。
聴覚と視覚とが鋭く庄吉に発達してきた。其処から一種の力が彼の心に湧いた。そしてその力が、或る神秘な、運命とでもいったようなものに絡《から》みついていった。
庄吉は何気ない風をしながらそれでも耳を澄まして、大留の家の中をあちこち歩き廻った。それからまたよく朝晩などみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんの姿を物影から貪るように覗き見た。然し彼が一番胸を躍らすのは、夕方、仕事場から帰って来て家に入る前に、一寸佇んで家の中の様子に耳を傾けることであった。いつもまた新らしい話が自分に就いてなされているような気がした。そしてまた、何か新らしいことが一日の間に家に起っていそうな気がした。
然し小母《おば》さんの方でもいつのまにか庄吉のこの癖に感づいていた。彼が帰って来そうな時はなるべく話をしないようにした。そしてまたよくそっと後から廻って、庄吉の佇
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