んでいるのを捉えた。その度毎に彼女は庄吉を打ったりまたは足蹴《あしげ》にしたりした。
「もうこれからしないから堪忍しておくれよ。」と庄吉は泣き乍ら云った。
「うるさいや。何度同じことを云うんだい。さっさと家を出てゆくがいい。お前のような者はうちには置けないんだよ。出ておいで。いい泥棒になるだろうよ。」
それでも小母さんは彼を追い出すでもなかった。
「屹度庄吉の後《うし》ろには誰かついてるよ。」と彼女は或る時金さんにいった。「私にはちゃんと分ってるんだよ。ほんとに油断も隙《すき》もありゃあしない。……私達の話をみんなきいて行ってしまうんだよ。お銭《あし》につられたんだね。」
おせい[#「せい」に傍点]はもうその頃は、金さんよりも棟梁のお主婦《かみ》さんに目星をつけていた。
おせい[#「せい」に傍点]と庄吉との暗黙の争いは次第に激しくなっていった。庄吉は見出さるる度毎に甚《ひど》く苛められ乍ら、それが却って彼の立聞きの好奇心を煽《あお》った。彼の身体にはよく紫色に腫上った傷跡がついた。
家の中に居る時も、庄吉はよく小母さんの方をちらりと横目で見た。小母さんも彼の方をじろりと見返した。
庄吉はいつしか新らしい隠れ場所を見出した。家は南に通りがあって西向きに建てられていた。そして通りから奥に勝手と便所とが並んで在った。便所の方は隣家の垣根に接して、その間に僅かに身を入れる位の余地があった。水道の共同栓の広場から木戸があって其処に通じていた。庄吉は隣家の裏口を廻って、いつも締りがしてないその木戸を押して中に入《はい》った。そして便所の側に蹲《しゃが》んだ。其処から家の中の話がよく聞えた。そしてまたその狭い空地をすかして表の通りの方も覗かれた。
庄吉は屡々長い間其処に身を潜めた。人しれぬ小さな穴から、世間の裏を覗いてるような、また自分の運命を見守っているような好奇な楽しみが、彼の心を唆《そそ》った。
庄吉は其処から、みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんの小さな足先をじっと見ることもあった。また家の中の話をきき取ることもあった。
「庄吉はもうどうにかしなけりゃいけないよ。」と小母さんはよく云った。
「なに小僧じゃないか。」と金さんは云った。
「小僧でいてあれだから恐ろしいんだよ。始終《しょっちゅう》人の隙《すき》を狙ってるような眼附をしてるじゃないか。私もうあれを見ると身震いがするようだ。今のうちにどうにかしないと、私達の方が負かされっちまうよ。お前さんのような飲んだくれにはその時にならなけりゃあ分らないのさ。だが私にはちゃんと分ってるんだよ。」
圧吉はそんな話を影からききながら、「今に何事か起るぞ」というような気がして心のうちが緊張した。そうすると自分のうちにも力が湧いて来るように思えた。
彼は其処《そこ》から忍び出て、何気ない風をして家に入《はい》った。
「何を今頃まで愚図々々していたんだい。」と小母さんは怒鳴って、じろじろ彼の姿を眺めた。
「親分のうちに用があったんだよ。」と庄吉は答えた。
「小母さんなんかどうにでもなる」と腹の中で庄吉は思った。然し妙に何かしら脅かされるような気持ちを彼は常に感じた。
丁度十一月のはじめのいくらかまだ暖《あたたか》い日の夕方であった。庄吉は例の隠れ場所に身を潜めた。家の中には誰か人が来ているらしい気配《けはい》がして、いつもと違って低い話声が洩れた。然し庄吉には何の話しだか少しも聞き取れなかった。ただ「庄吉」という自分の名だけが音の調子でそれと分った。然し彼はそれが何か自分の身の上に重大な関係のあるものであることを直覚した。話声はひそひそと長く続いた。そして客は中々帰りそうにもなかった。
物影には夕暮の闇がしっとりと纒っていた。そして庄吉はその夕闇の中に、獲物を狙う獣のようにじっと家の中を窺っていた。緊張した時間が静に過ぎ去って行った。
やがて客の帰る音がした。「うまくゆきそうだ」という小母さんの声がした、それからまたよくきき取れぬ金さんの声がした。それから後はひっそりと静まり返った。
庄吉はもういい頃と思って其処に立ち上った。そして木戸から共同水道栓の所へ出ようとした時小母さんが家の裏口から突然姿を現わした。庄吉は其処に立ち悚《すく》んでしまった。
小母《おば》さんは夕闇《ゆうやみ》をすかして庄吉の姿をじっと見守った。それから物も云わないで彼の首筋を捉えてぐんぐん家の中に引きずり込んだ。そして庄吉を其処につき倒して、足で蹴り続けた。暫くは憤怒に声も出ないらしかった。
「何処《どこ》にいたんだい!」と小母さんはそれだけ云った。庄吉は彼女の眼をつり上げて赤い顔をした凄じい形相《ぎょうそう》を見た。
「さあ今日はみんな云わしてやる。」と云って小母さんは息をついた。「お前誰に頼まれて私達の話をかぎつけようとしてるんだい。今日ばかりはもう白状しないとこのままには置かないから、そう思うがいい。」
「俺は何も知らないんだい。もう之からしないからよう……。」
と庄吉は泣声を立てた。
「何だと、まだ図々しい口を利きやがって……。」
金さんは酒に酔っぱらってどろんとした眼でじっと見ていた。堅吉と繁とは片隅に小さくなって坐っていた。緊張した時間が一瞬間続いた。
小母さんはいきなり火鉢から沸立っている鉄瓶を取り上げた。
「この餓鬼野郎いわなけりゃあこうしてやるぞ。」
熱湯が一滴庄吉の首筋に垂らされた。庄吉は心臓の底までびくりと震えた。
再び熱湯が垂らされようとする時、庄吉はがばとはね起きた。そしていきなり鉄瓶を小母さんの顔に叩きつけてやった。
あッ! といって小母さんは倒れた。
「何だ?」と金さんも立ち上った。
庄吉は身を交わして裏口から走り出た。
庄吉はただむやみと駆け続けた。赤い灯がちらちらと彼の眼に映じた。そしてそれが益々彼の心を向うへ向うへと追い立てた。然しいつしか彼は呼吸が苦しくなり足が疲れて、今にも倒れそうになった。立ち留ると誰も彼を追っかけて来る者もなかった。彼は夢を見てるような心地でぽかんと立っていた。
何時のまにか彼のまわりに大勢の人が集った。皆が遠くから彼をとりまいてじろじろとその姿を眺めた。それに気がつくと、彼は急にわあっと大きい声を立てて泣き出した。
「どうしたんだ?」と誰かが云った。
誰もそれに答える者はなかった。小さい囁きが人々の間に交わされた。
「何だ? 何だ?」と云って職人体の人が中に入って来た。「どうしたんだ?」
その男は何の答えもないので、ぐるりと群集を見廻した。それから庄吉の側に寄っていった。
「どうしたんだい。」
庄吉は何とも答えなかった。
「泣いていたって分らないじゃねえか。ほんとに仕様がねえなあ。……一体お前の家は何処だい。」
「白山。」と庄吉は低い声で答えた。
「白山だって、なに遠かあないじゃねえか。どうしてこんな所に立ってるんだい。帰りな。さあ早く帰りなったら。」
庄吉は泣き声を止めたが、それでもじっと立ったまま動かなかった。
「ほんとに仕様がねえなあ。」とその男は云ったままじっと庄吉の姿を眺めた。
「大方泥ちゃんでもやって追ん出されたんだろうよ。」と何処かの主婦《かみ》さんが云った。
それでまたまわりの群集のうちに方々で囁き声が起った。
そのすぐ前の炭屋から一人の男が出て来た。
「おいそんな所に立ってちゃ物騒でいけないじゃねえか。さあこれをやるから芋でも食って帰るがいい。……何だ下駄を手に下げているじゃねえか。下駄でもはきなよ。」
庄吉はその時まで片手に緊《しか》と下駄を握っていた。家を出る時、自分でも知らないで下駄を持って来たものと見える。
彼は黙っていわるるままに下駄をはいた。そしてその男の差出した白銅を一枚手に取った。それからそのまま歩き出した。
大勢の者が彼の後からぞろぞろついて来たが、やがてそれも一人二人ずつ無くなってしまった。庄吉は妙にぼんやりして歩いていたが、とある焼芋屋に入《はい》って、貰った白銅で焼芋を買った。そしてその袋から三つばかり大きいのを手に取って、残りは其処に捨ててしまった。お主婦《かみ》さんはじろじろ彼の後姿を見送った。
庄吉は温い焼芋をかじりながら、歩いていた。それはまだ彼が一度も通ったことのない狭い裏通りであった。通り過ぎる人が彼の姿をじっと眺めていった。そのうちに冷たい雨がぽつりぽつりと落ちて来た。
彼は妙にぼんやりしていた。頭の中に何かが働きを止めたような気持であった。明るい大通りを通ったり、うす暗い横町を通ったりした。そして小母さんの顔に沸き立った鉄瓶をぶっつけたことと、金さんが恐ろしい声をして立ち上ったこととを、きれぎれに思い出した。そして妙に心が何物かに脅かされてただむやみに歩くのを余儀なくされた。
「おいおい、」と云って巡査に一度呼び留められた。
「何所へ行くんだ。」
「白山。」と彼は答えた。
「お前の家は何だ。」
その時庄吉の心に棟梁の顔が浮んだ。「大留《だいとめ》」と彼はいった。
「大留と云うのは大工か。」
庄吉はもう何も答えないで、巡査の顔を見守った。
「よし早く行け。……白山はそっちじゃない。」
巡査は彼が道に迷ったとでも思ったのか、右へ行って左へ行って何処を曲るんだというように委しく白山への途筋を教えてくれた。
然し庄吉は教えられた方へは行かなかった。彼は少しでも土地の低い方へ低い方へと歩いて行った。丁度低きにつく水の流るるようなものであった。彼はただ低い方へ流れていった。そして街路《まち》を通る人達は皆彼と反対の方向へ行く者のように彼には思えた。雨の中を、傘をさして通る人々の冷たい無関心な眼附の中を、そしてちらちら光る軒燈の中を、彼は一人歩いていた。
とある軒先に佇んでいる真白に鉛白《おしろい》をつけた女をふと庄吉は見た。そして一度逢った金さんの妹の事を思い出した。どうやら横顔が似てる様にも思えてきた。彼は立留って、じっと其姿を見守った。
「何だよお前さんは?」と女は云った。そして暫く庄吉の姿を見廻わした。「まあ頭から濡れてるじゃないの。こっちにお入《はい》りよ、火に当らしてあげるから。」
女は庄吉を家の方へまねいたが、その時庄吉は急に何だか恐ろしくなって駈け出した。
それから庄吉は殆んど夢中であった。彼は高いライオンの広告塔《こうこくとう》を見た。黒く濁った掘割の水を見た。そして頭から冷たい雨に濡れて、手足の先が痲痺していた。それでも彼はなお低い方へと歩いていった。
庄吉はぱっと明るいものに眼が眩むように覚えた。何だか黒い影が彼の心から逃げて行った。或る大きいものが彼の上で羽搏《はばた》きをした。そして彼は擾乱と熱火とのうちに巻き込まれた。それから最後に冷たいものを全身に感じた。
彼は疾走してくる電車に触れたのであった。電車は留まる間もなく、一二間彼を救助網につっかけて走ったが、遂に車輪の下に彼を轢いた。
もう夜遅くであった。脳味噌を露出し片腕を断ち切られた彼の身体が、無惨に地面の上に横っていた。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新潮」
1916(大正5)年12月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
2008年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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