彼は何も分らないでよく働いた。そしてよく眠った。毎朝金次郎の妻のおせい[#「せい」に傍点]は彼を揺り起すのに眉を顰めた。
「どうしてこう寝坊だろうね、肥桶《こえたご》のくせに。図々しいったらありゃしない。」と彼女はよくいった。
「肥桶《こえたご》」というのがいつしか家での彼の異名となっていた。
「肥桶《こえたご》起きろよ!」と長男の堅吉がよく怒鳴った。
 然し庄吉は二三度起される迄は床から出なかった。金次郎夫婦とその二人の子供と一家四人枕を並べて寝る六畳の隣りの格子先の四畳半に彼は寝かされた。枕頭の煤けた櫺子窓からほの白い夜明けの光りが射込むのを見ながら、うとうととして表を通る人の足音や車の音を聞いているのが、彼には一番快い時間であった。彼はよく櫺子窓の先の蜘蛛の巣を払い落した。それから毎朝表の足音や車の音をききながら、新聞屋だろうかとか牛乳屋だろうかとか考えた。それは実際巣鴨の場末の田舎に居た「肥桶《こえたご》」の嘗て知らない楽しみであった。人生の珍らしさと労働の健かさとが彼の心に夜明けと共に忍びこんで来るのであった。
「庄吉の野郎毎朝眼が覚めてるのに起きないんだよ。」とおせい[
前へ 次へ
全30ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング