中々執心らしいんだ。」
「なにあのお主婦さん古狸だから何をいうか分りゃあしないよ。それに年季に上げたらお給金は貰えないしさ、手斧《ちょうな》を使うようになって怪我でもしてごらんな、うちで黙って見てもおれないじゃないかね。も少ししたら私はどっかの店に小僧にでもやったらと思ってるんだよ。うちにも堅吉が居るんだし、あれの方を学校がすんだら年季に上げたいんだよ。」
「それもいいだろう。」
「お前さんはいつもそれだからいけないんだよ。いつもどうでもいいだろうと来るんだものね。お前さんがしっかりしてくれなくちゃ困るじゃないか。どうしてそう愚図《ぐず》なんだろうね。お酒ばかり喰《くら》ってさ……。」
 裏口に身を寄せてきいていた庄吉は、そこでそっと足音を盗んで表に出た。外にはまだ暮れ悩んだ薄明るみが湛《たた》えていて、空には淋しい星が一つ二つ輝いていた。
 庄吉は暫くの間通りを歩き廻った。小さな家の立ち並んだ狭い裏通りには、一日の労苦を終えた人々の安らかな家庭の団欒《だんらん》の気がこもっていた。その中で庄吉は広い社会のうちにぽつりと置かれた自分の小さな運命を漠然と心に浮べたりした。
 庄吉は淋しい心でうちに帰った。
「何を愚図々々していたんだい。こんなに遅くまで。」と小母さんは怒鳴った。
「親方のうちに用があったから。」
「どうだか分るものかね。大方活動の前にでもぼんやり立っていたんだろう。仕様のない餓鬼だね。早く御飯でもおあがりよ。」
 庄吉は一人《ひとり》で食《く》いちらされた餉台《ちゃぶだい》に向った。
 その晩彼は封筒はりをしながら、死んだ父のことを思い出したりした。然し別にそれも懐しいものでもなかった。ともするとしっかりした大留の顔がそれを消して彼の心に浮んできた。
 毎朝庄吉は八時頃弁当を持って大留の仕事場に通った。そして夕方家に帰って来た。小父さんと一緒の時も、又そうでない時もあった。そして幾らかの心附けの金が彼の為に小父さんの手に渡された。
 庄吉は夕方一人で少し早めに帰るのが一番嬉しかった。一寸廻り道をして活動の看板を見に行くこともあった。また華やかな商店の窓を覗いてまわることもあった。然し彼が一番嬉しかったのは家の向うのみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんに逢うことであった。漸くお垂髪《さげ》にしたばかりの愛くるしい顔が彼の頭にはっきり刻まれていた。
 仕事場に通わなかった或日庄吉は、堅吉や繁やまた近所の子供等が集まってみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんの護謨毬で遊んでいるのを、側に立って見ていたことがあった。みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんはいつも種々な玩具《おもちゃ》を持っていてそれを皆に貸すのであった。其日誰かが投げた毬は、ころころと転《ころが》って池田さんの板塀の中に入《はい》った。板塀の下の方は棧が二つしてあってすいていたので、毬は外からよく見えた。
 皆が代る交《がわ》る手を差し出したが届かなかった。
 庄吉はそれを見ると、自分で進んでいって「俺が取ってやる。」と云った。
 大勢の子供達は只黙って眼を見合った。
 庄吉は腹這いになって棧の下に身を入れた。そしてずんずん入《はい》って行って、漸く足先ばかりが塀から覗いた位になって毬に手が届いた。で、片手に毬を持って出ようとすると堅吉が彼の足の上に腰掛けた。
「みんな腰掛けてみろ、いい腰掛だあ。」
 それで皆がどっと笑った。
 庄吉は棧の下に身体を押されて身動きが出来なかった。「覚えてろ!」と彼は叫んだ。そして片手に土塊《つちくれ》を掴んで投げつけた。
 子供達は逃げていった。そして向うの隅から「肥桶《こえたご》やあーい」と声を合した。
 庄吉は真赤な顔をして立ち上った。すると其処にみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんが一人立っているのを見た。彼は黙って護謨毬を彼女の手に渡した。
 みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんは黙って彼の顔を見上げたが、「ありがとうよ。」と大人ぶった口を利いて、そのままばたばたと家の方へ駆けて行った。
 妙な喜びと悲しみとが庄吉の胸の中に乱れた。それでも彼は自分のうちにまた或る悲痛な力を感じたのであった。
 その晩庄吉は小母さんからひどく叱られた。
「お前さんは今日泥棒の真似《まね》をしたってね。へんさすが生れだけあって違った者だね。だが私の家に居る間はそんな真似は止《よ》しておくれよ。此度またしたらもう家に置きゃあしないからそう思っといで。碌でなしの癖に悪いことばかり覚えやがって、私達の顔にもかかわるんだよ。」
 庄吉は横目でちらと見やると、堅吉は片隅に何知らぬ顔して坐っていた。
 然しそれでも、庄吉はその時から特にみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんが好きになった。夕方など彼女が他の友達と遊んでいる時、彼はよく物影から顔だけ出して彼女の方を見ていた。自分の身体を
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