物影に潜めることもいつしか彼に或る不思議な喜びを与えるようになっていた。
そうした庄吉の姿を見出すと、みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんはいつも急いで逃げて行った。
彼女が逃げてゆくと、庄吉は急に我に返ったような気持ちを覚えた。自分の身体を潜める神秘な楽しみが急に何処《どこ》かに消散してしまって、みよ[#「みよ」に傍点]ちゃんが逃げてしまった後の淋しい気持ちが彼に明かに感じられて来た。
然し彼はまた、いつか小父さん夫婦の話を立聞した頃から、次第に立聞きの癖がついた。大留《だいとめ》の仕事場でも、どうかすると彼は物影から人の話や素振りに注意するようになった。物事の裏面が彼の心を不思議に誘惑した。そして彼は自ら知らないで、其処に自分の小さな運命を朧ろげに見守っていた。彼は一種の不安な恐ろしさと或る神秘な喜びとを心に感じた。
その年夏に入ると殆んど毎日のように雨が続いた。そして秋に入っても雨は止まなかった。たまに二三日晴天があるかと思うと、それも多くは半日は曇天かなんかであった。
この雨のために方々で非常な打撃を蒙った。大留の方もその数に洩れなかった。戸外の仕事は殆んど出来なかったからである。外廻りの仕事に行った人達は幾度も雨に妨げられて空しく帰って来た。また雨を気遣って普請を延ばす人も多かった。それで仕事場の方の用も少なくなった。
「ほんとに仕様がない天気だなあ。」とお主婦さんは口癖のように云った。
「なに一年中も続く雨じゃあるまいし、そのうちに霽《あが》るだろうよ。」
大留さんはそう云って平気な顔をしていた。
然し仕事場の方は少しずつ人数が減《へ》っていった。倉さんや常さんなどは殆んど顔を見せなかった。そして金さんはその頃から暫くの予定で砲兵工廠に出るようになった。
庄吉は相変らず大留の仕事場に通っていた。それは、金次郎がまた造兵の方を止めて大留の世話になる時のためと、堅吉が来年の春小学校四年を終えて大留に年季に上る時とのために、大留の機嫌を損じないようにというおせい[#「せい」に傍点]の算段からであった。何れは商店の小僧にやらるるのだということが庄吉にも呑込めてきた。
庄吉はよく外に佇《たたず》んで、家の中の話を立聞きした。
或日の夕方彼はまたそっと自分の家の裏口に忍び寄った。中はいつもと違って妙にひっそりとしていた。「何かあったに違いない」と彼は思った。長い間立っていたが何の物音もしないので、彼は我を忘れてそっと台所口から覗こうとした。妙な好奇心が露《あら》わに彼の胸を躍らした。
その時急に彼の肩口を掴《つか》んだ者があった。ふり返るとおせい[#「せい」に傍点]であった。彼女は顔をてかてかさして手に石鹸箱《しゃぼんばこ》を下げていた。
庄吉は無言のまま家の中に引きずり込まれた。
「何をしていたんだい。さあお云い。」と小母《おば》さんは怒鳴った。
「何を図々しく黙っているんだい。云わなけりゃあ、こうしてやる。」といって彼女は庄吉の右手をぐんぐん捩じ上げた。「大方何か物を持ち出そうとでも思ったんだろう。へんお前さんにそんなことをされるような間抜けじゃないよ。」
庄吉は痛さにしくしく泣き出しながらいった。
「小母《おば》さん堪忍しておくれよ。誰もいないんで俺は恐《こわ》くなったんだい。それで中を覗いてみたんだい。」
「よくそんな白々しい嘘がつけたもんだね。私にはちゃんと分ってるよ。小父さんに頼まれて何か持ち出すつもりだったんだろう。小父さんにそう云うがいいや、私あそんな間抜けとは違うからね。」
庄吉は何と弁解しても許されなかった。そしてその晩御飯も食べさせられないで、しくしく泣きながら冷たい床の中に入《はい》った。
おせい[#「せい」に傍点]は金さんが造兵から帰ると、訳も云わないでぷんぷん怒っていた。
「造兵の女《あま》っちょの処へ行っちまうがいいや、飲んだくれの間抜けなんか私は真平《まっぴら》だよ。」
「何を云うんだい、馬鹿野郎。」と金さんも怒鳴った。
「へん私はどうせ馬鹿だろうさ。」
金さんは自分で立って行って、台所で冷酒をコップで煽《あお》った。
金さんが造兵に出る様になってからそういう喧嘩は珍らしくなかった。又実際、夜勤の方に廻る様になると、其処に入り込んでいる怪しい女にひっかかることもよくあるらしかった。朝彼は酒ぐさい息をしてよく帰って来た。そんな時は屹度、四時頃彼がまた夜勤に出かける時一騒動が起るのであった。
庄吉はそんなことを傍《はた》からじっと見ていた。そして彼の心に映ずる世間も次第に複雑になっていった。
大留の仕事場でも彼は物影から種々な話をきいた。彦さんと音さんはよく棟梁の居ない時なんか面白い話をして笑い合っていた。
「れこ」とか「張る」とか「なか」とかいう言葉がよく彼等の口か
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