味がよく分らなかったけれど、常々の棟梁の言葉からして、道具を使うのも単に使うだけでないことが朧ろげに呑込めていた。そして頭領は何かしら偉《えら》いものを持っているように思えてきた。皆の者がいつも黙ってその云うことを聞いているのが、本当だと云う気がしてきた。
何時か庄吉も一度|棟上《むねあ》げに連れて行って貰ったことがあった。大留《だいとめ》の下についてる大工達の外に多くの仕事師達もやって来た。まだ新鮮な香りのする白木の桁構えのうちには、健やかな気分が漲っていた。頭《かしら》が上にあがって音頭《おんど》を取った、そして大勢の衆の木遣りの唄につれて棟木がゆるゆると上に引き上げられた。庄吉は勇ましい頭《かしら》の姿を見た、それから御幣《ごへい》と扇と五色の布とがつけてある大黒柱の神々しさを見た、そしてまた革の印絆纒《しるしばんてん》を着て少し傍に離れて立っている棟梁《とうりょう》の鹿爪らしい顔を見た。新しい印絆纒を着せて貰ったことよりもそれらのものが一層庄吉の心を引立たした。
庄吉は棟梁の側に行ってからこう云った。
「親方……。」
「何だい?」と答えて棟梁は庄吉の顔を見返したが、庄吉が其儘下を向いて了ったので唯|微笑《ほほえん》でみせた。
然しまた棟梁のことを何かと影口をきく者もないでもなかった。大留のうちには惣吉に専太という二人の年季奉公の小僧が居た。で庄吉は自然に彼等の方に親しんで行った。特に金さんが得意先に出かけて行った時や、何かにつけがみがみ叱りつける彦さんが居ない時など、彼は小僧達と一緒にこっそり薩摩芋を買って食べたりした。お小遣銭《こづかい》を持たない庄吉がいつも買いに走らせられた。
「うちの親方はぐずなんだい。」と惣吉はよくいった。「こないだの坂の上の旦那の家の建増しを大万《だいまん》の方に取られちゃったじゃねえか。働きが足りねえんだよ。俺が親方位になりゃあ、区内の仕事は一人で立派に引受けて見せてやるんだがな。」
「だが親方は偉《えら》いんだい。」と庄吉はいった。
「偉いのは偉いさ。ただ働きが足りねえんだよ。」
庄吉にはその意味がはっきり分らなかった。惣吉は得意そうにこんなことをいい出した。
「こないだね、親方が例の処へ行って朝遅く帰って来たもんだから、お主婦《かみ》さんに小言を喰って喧嘩をおっぱじめたんだ。だが後でお主婦さんにあやまっていたよ。甘《あめ》えんだな。」
庄吉は妙に反抗したいような気が起ったが、別に何とも答えないで専太の方をじろりと見た。専太はにやにや笑って惣吉の話をきいていた。一体専太は始終休みなしによく働くばかりの小僧だったが、いつもにこにこしてるのみで口数の少ない少年だった。それに反して惣吉は横着な影日向をする少年だった。そしていつもお主婦さんの機嫌ばかり取ってることが庄吉にも分っていた。お主婦さんから時々、内証でお小遣を貰うことを庄吉も聞かされたことがあった。「俺は働きがあるんだい。専太の野郎とは異《ちが》うんだからな。」と彼は云った。「惣吉や。」とお主婦《かみ》さんは呼んだ。そして彼はよく昼過ぎのお茶受けを買いにやらされていた。
然し庄吉は何だかお主婦さんに昵《なじ》めなかった。
「お前年季に上りたいんじゃないのかい。」といつかお主婦さんは彼の眼の中を覗き込むようにして尋ねたことがあった。「私もそれがいいと思うんだがね。……然し小母《おば》さんは随分のしっかり者らしいね。何かつらいことがありはしないかい。あったらそうお云い、私が悪いようにはしないから。でももう暫く辛抱するんだね。そのうちにどうにかしてあげるよ。うちの親方もお前には見込があると云っているんだからね。」
庄吉はそう云われたことが嬉しいよりも寧ろ何となく恐ろしく思えたのであった。自分の未来のことを考えると、触れてならないものに触れたような恐しさが後で萠した。そして大留《だいとめ》のうちにも種々な術策が方々で行なわれていることが漠然と彼の頭に入《はい》って、それが一層彼の心を臆病ならしめた。
或日の夕方大留の仕事場から帰って来て台所口の方に廻ろうとすると、その日先に帰った金さんがおせい[#「せい」に傍点]と何やら声高に話している声がして、庄吉という言葉がふと彼の耳に入《はい》った。
「大留《だいとめ》さんが見込がありそうだというんだ。」
「そんなことが子供のうちから分るもんかね。」
「いや兎に角器用なんだ。今までに一度だって怪我もしなかったじゃねえか。」
「何をいうんだよ、お前さんは。怪我でもされて高い薬代を取られた日にはかなわないじゃないかね。」
「まあそれもそうだが、大抵の者あ怪我の一二度はするものさ。……兎に角|大留《だいとめ》さんは多少見所がありそうだから年季に上げたらどうだというんだ。それにお主婦《かみ》さんが
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