何やかや用をした。仕事場に出かけるのが一番いやだった。
金さんの妹は庄吉を物影に呼んだ、そして五十銭銀貨を一枚くれた。
「黙《だま》っておいでよ、ね。そして辛抱して働くんだよ。親方にも私からよく云っておいてあげるから。」
「親方はよく姉さん所へ行くの?」
「ああよくおいでなのよ。」
庄吉はその日銀貨を大事そうに帯にくるんで仕事場に行った。時々|大留《だいとめ》さんから手間賃に貰った金はみんなそのまま小母さんに渡してしまって、彼は一文も小遣を貰わないのであった。そして繁などは「かあちゃん、一銭おくれよ。」といっては叱られながらもその金を自由に使っていることが、彼にはいまいましかった。然しその日は、もうそんなことはどうでもいいような気がした。
「おい今日は俺が奢《おご》るよ。」と庄吉は其日お茶の時に密《そっ》と惣吉に云った。「何でも好《す》きな物を云えよ。」
「幾許《いくら》持《もっ》てるんだい。」と惣吉は不思議そうな顔をした。「そんなら餡麪麭《あんパン》を買ってこいよ。」
庄吉は十銭だけ餡麪麭を買って来て皆で食べた。
金さんの妹が帰って行くと庄吉は急に淋しさを覚えた。そして今迄知らなかった強いお化粧の匂いがいつまでも彼の鼻に残っていた。彼はその頃から、道を歩くにもじっと人の顔を覗いて通った。首を少し前につき出して、通る人の顔や懐の当りをじっと見てやるのが、何だか嬉しくてたまらなかった。そっと覗き見らるるようなものが至る所にあった。
聴覚と視覚とが鋭く庄吉に発達してきた。其処から一種の力が彼の心に湧いた。そしてその力が、或る神秘な、運命とでもいったようなものに絡《から》みついていった。
庄吉は何気ない風をしながらそれでも耳を澄まして、大留の家の中をあちこち歩き廻った。それからまたよく朝晩などみよ[#「みよ」に傍点]ちゃんの姿を物影から貪るように覗き見た。然し彼が一番胸を躍らすのは、夕方、仕事場から帰って来て家に入る前に、一寸佇んで家の中の様子に耳を傾けることであった。いつもまた新らしい話が自分に就いてなされているような気がした。そしてまた、何か新らしいことが一日の間に家に起っていそうな気がした。
然し小母《おば》さんの方でもいつのまにか庄吉のこの癖に感づいていた。彼が帰って来そうな時はなるべく話をしないようにした。そしてまたよくそっと後から廻って、庄吉の佇
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