った。長い間立っていたが何の物音もしないので、彼は我を忘れてそっと台所口から覗こうとした。妙な好奇心が露《あら》わに彼の胸を躍らした。
その時急に彼の肩口を掴《つか》んだ者があった。ふり返るとおせい[#「せい」に傍点]であった。彼女は顔をてかてかさして手に石鹸箱《しゃぼんばこ》を下げていた。
庄吉は無言のまま家の中に引きずり込まれた。
「何をしていたんだい。さあお云い。」と小母《おば》さんは怒鳴った。
「何を図々しく黙っているんだい。云わなけりゃあ、こうしてやる。」といって彼女は庄吉の右手をぐんぐん捩じ上げた。「大方何か物を持ち出そうとでも思ったんだろう。へんお前さんにそんなことをされるような間抜けじゃないよ。」
庄吉は痛さにしくしく泣き出しながらいった。
「小母《おば》さん堪忍しておくれよ。誰もいないんで俺は恐《こわ》くなったんだい。それで中を覗いてみたんだい。」
「よくそんな白々しい嘘がつけたもんだね。私にはちゃんと分ってるよ。小父さんに頼まれて何か持ち出すつもりだったんだろう。小父さんにそう云うがいいや、私あそんな間抜けとは違うからね。」
庄吉は何と弁解しても許されなかった。そしてその晩御飯も食べさせられないで、しくしく泣きながら冷たい床の中に入《はい》った。
おせい[#「せい」に傍点]は金さんが造兵から帰ると、訳も云わないでぷんぷん怒っていた。
「造兵の女《あま》っちょの処へ行っちまうがいいや、飲んだくれの間抜けなんか私は真平《まっぴら》だよ。」
「何を云うんだい、馬鹿野郎。」と金さんも怒鳴った。
「へん私はどうせ馬鹿だろうさ。」
金さんは自分で立って行って、台所で冷酒をコップで煽《あお》った。
金さんが造兵に出る様になってからそういう喧嘩は珍らしくなかった。又実際、夜勤の方に廻る様になると、其処に入り込んでいる怪しい女にひっかかることもよくあるらしかった。朝彼は酒ぐさい息をしてよく帰って来た。そんな時は屹度、四時頃彼がまた夜勤に出かける時一騒動が起るのであった。
庄吉はそんなことを傍《はた》からじっと見ていた。そして彼の心に映ずる世間も次第に複雑になっていった。
大留の仕事場でも彼は物影から種々な話をきいた。彦さんと音さんはよく棟梁の居ない時なんか面白い話をして笑い合っていた。
「れこ」とか「張る」とか「なか」とかいう言葉がよく彼等の口か
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング