になった。言われるまま、室の隅っこに上りこんだ。
「ね、似てるだろう。」と先生はお友達に言う。
「誰にだい。」
「さあ、名前は忘れたが、やはり雑誌社のひとだ。なんといったかな……。」
 先生は眉根を寄せて考えこみ、それからまた酒を飲みだした。私は雑誌の原稿のことを繰り返し頼んだ。
「明後日の朝までに頂きませんと、たいへん困りますの。もう締切りもすぎておりますから……。」
 少しはかけねがあるのだ。先生はそれは知ってるらしい。
「よろしい。明後日の朝までには、きっと書くよ。だが、君のところは……。」
 先生は私の名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]に眼を落しながら、はたと言葉を切って、私の顔をじっと見つめた。余り長く見つめられ、私は固くなって、顔を伏せた。先生はまだ見つめている。それからふいに笑いだした。
「なあんだ。君か。道理で似てる筈だ。本人じゃないか。」
 何のエピソードかと、お友達が尋ねると、先生はまた笑って、このひとは小杉喜久子に似てると思ったが、その小杉喜久子がこのひとだったと、ばかなことを言う。それも本気で、少しの衒いもないのだから、いっそうばかばかしい。
「よく似てると思ったら、本人だった。これは奇遇だ。一杯飲めよ。祝杯だ。」
 私は飲めないと断ったが、しいてお猪口を持たせられて、祝杯を挙げさせられた。
 一座は陽気に浮き立ってきた。
「君は似てるね。」
「誰にだい。」
「山田にさ。」
「俺が山田だ。」
「それは奇遇だ。」
 そして祝杯。
「君は似てるね。」
「誰にだい。」
「野島にさ。」
「俺が野島だ。」
「それは奇遇だ。」
 そして祝杯。
 おかげで私は、先生以外の三人の名前も覚えてしまった。そして辞し去る機会を失った。
 そんなことをして騒いでいるところへ、三十すぎの女と、まだ学校出たてらしい若い男が、先生をたずねて来た。二人とも雑誌記者だった。
「君は似てるね。」と先生が言った。
「あら、誰に。」と女は言った。
「あら、誰にか。よかろう。こんどは女言葉といこう。」
 そして前の四人で、また始めた。
「あなた似てるわ。」
「あら、誰に。」
「啓子さんによ。」
「あたし啓子よ。」
「まあ、奇遇ね。」
 そして賑かな祝杯。
 私は呆れた。いったいこれが、新時代の苦悩の代弁者と目される中堅作家の、本当の姿なのであろうか。何かの擬態なのであろうか。私には見当もつかず、呆れて戸惑ってしまった。だが誰も、ふしぎがってる様子はなかった。弘田啓子も、私はすぐにその名前を知ったのだが、また学生上りの若者も、やがて話の元を明かされると、奇遇ねの問答を面白がり、声を揃えて騒ぎだし、まけずに祝杯を干した。お銚子が幾本も並んだ。
「小杉さん。」
 ぽつねんとしている私へ、弘田啓子は呼びかけた。
「小杉さん、あんたが種をまいたんじゃないの。なにを真面目くさってるのよ。さあ、祝杯、祝杯。」
 私は仕方なしに、また、祝杯を挙げた。
「その調子。今晩はみんな酔っ払うのよ。なに、大丈夫。ここで、ざこ寝をしよう。」
 いつのまにか、電燈がついていた。私は悲しくなった。もう帰ろうと思い、先生に原稿のことを改めて頼んだ。
「分ってる、分ってる。」と弘田啓子が手を振った。
「書くよ、書くよ、必ず書くよ。」と先生も調子を合せた。
「君は似てるね。」
 皆があとを続けてるうち、どうしたのか、先生は黙りこんでしまった。祝杯がすんでから、先生は言った。
「ちょっと待ってろよ。僕一人でやる。……君は似てるね。誰にだい。犬にさ。俺が犬だ。それは奇遇だ。」
 先生は拳固で食卓を叩いて調子を取った。
「犬だ、犬だ。みんな犬ばかりだ。」
 私は眼を見張った。空気が変ってきたのだ。
「犬でないという自信のある者は、手を挙げてみろ。俺だって犬だ。だが、この犬を、石で打ち得る者はあるめえ。みんな犬さ。習慣の虜さ。いつも同じ道ばかり歩いていやがる。いつも同じ所に小便をひっかけて、それをかぎながら、同じ道ばかり歩いていやがる。自分の小便の匂いがねえと、心細えんだ。酒のねえ一日は、心細えんだ。毎日毎日、酒を飲んでばかりいやがる。だが、原稿は書くよ。おい、小杉君、小杉さん、原稿は書くぜ。書かなけりゃあ、心細えんだ。何か書かなけりゃあ、淋しくてやりきれねえ。だから、安心しろよ。きっと書く。安心して、酔っ払っちまえ。酔っ払って、泊っていけよ。今夜はざこ寝だ。ええと、小杉……きくちゃん。君は似てるね。誰にだい。わんわんさ。俺がわんわんだ。それは奇遇だ。」
 祝杯を挙げると、飲み干したはずみに、先生は倒れかかった。側の者がそれを支えた。先生は坐りなおして、また祝杯を挙げた。
「あなた似てるわ。」
 弘田啓子が音頭を取った。
 私はそっと座をすべって、靴をはき、土間に立った。ふしぎなことに、誰も私を引き留めようとする者がなかった。酔って表の空気を吸いに出る、そんな風に思われたのかも知れない。それとも、もう私のことなど、面白くないので誰も眼にとめないのかも知れない。私はすっと外へ出た。
 もう暮れていた。都心から遠い雑草のある道を、とぼとぼ歩いていると、眼に涙が出てきた。なんというでたらめな、そして悲しい人たちだろう。先生はじめみんなそうだ。スカートの裾にまつわる宵の風には、もう秋の気があった。私は思いに沈んで、涙が眼にいっぱいたまり、ハンケチで拭いた。
 ところが、省線電車の駅近く、賑やかな街路の明るい灯を見ると、私はふと、騙されたような気持ちに変った。誰が騙したんでもない。先生やあの人たちが騙したんでもない。ただ私の方から騙されたんだ。つまり、すべてが嘘だったんだ。先生はじめ皆が言ったこと、したこと、すべて嘘だったんだ。それでは真実はどこにあるのだろうか。私の方だけにある。どこにもなく、ただ私の方だけにある。
 その思いは、奇異なものだった。私はまだ嘗てそんな思いをしたことがなかった。謂わば、外部の世界がすべて拵え物になって、自分一人が曠野の中に残された感じだ。
 それでも、またふしぎなことに、私は淋しくなかった。小さな小さな、光るものが心の中にあって、それが力となり喜びとさえなった。
 今にして私ははっきり思い当る。あの人たちすべて、ヴァージニティーを失っているのだ。精神的なことを言うのではない。単に肉体上のことだ。男たちはもう童貞を失っているし、女たちはもう処女を失っている。肉体のことだ。饐えた匂いがしていた。ざこ寝だってなんだって、平気で出来るだろう。
 だが私は、私の肉体は、処女の純潔さを保っている。年若い雛妓のそれとは、同じ肉体でも、香気が違うのだ。饐えた匂いなぞ、みじんもありはしない。
 私は一種悲壮な気持ちで、おそく家に戻った。手塚さんを加えた貧しい晩餐は、もう終っていた。私はみんなの平凡な世間話を聞きながら、こそこそ食事をすました。それきり何事もなかったのだ。何事かあるだろうと思っていたのは、私の処女の肉体の空想だ。童貞処女を失った肉体にとっては、たいていのことが可能であろう。しかもその可能性は、四方八方に拡がり得るとしても、つまりは浅薄なものに過ぎない。童貞処女の肉体にとっては、可能性は純潔のカテゴリーの中に制限される。制限されながらも、それは無限に遠く、無限に高く、無限に深く、伸長され得るのだ。生意気でもなんでもない。これが童貞処女の肉体の矜りではあるまいか。私はこの矜りによって、手塚さんへ、あの作家先生へ、その他のあらゆる饐えた肉体へ、抗議を提出しよう。

 東の空は、見る見るうちに明るくなっていった。その明るみが中天に差して、星の光りが消えてゆき、却って大気のなかに薄闇が淀んでくる。お寺の銀杏樹がくっきりと姿を現わし、その重畳した緑葉の一枚一枚が、浮き上って、その中に、雀がもう囀りだした。声は声を呼んで、チイチク、チュクチュク、チイチク、チュクチュク、潮のように高まってくる。もっと鳴け、もっと鳴け。雀、雀、お前たちも童貞処女ではないか。胸の張り裂けるほど……。
 ああ、私は思念の息の根をとめた。雀が、あの鳴き騒いでる雀のすべてが、なんで童貞処女なものか。童貞処女は今年生れの小雀だけだ。それと親雀と、どうして区別出来よう。肉体、肉体そのものの心だ。
 大空に光りが、日の出の紅い光りではなく、盲いたようなただ白い光りが、いつしか漲って、その反映で物影が消えていった。私は眩暈に似たものを感じた。家にはいって、頭痛がすると母に言った。昨晩遅くなって、風邪をひいたのかも知れない、という口実で、布団にもぐりこんでしまった。手塚さんを駅まで見送りに行くことになっていたが、誰が行くものか。姉さんだけ行くがいい。首縊りのキスのお伴なんか御免だ。
 私は夢をみてるような気持ちで、それからほんとにうとうと眠ったらしい。眼がさめると、涙が出ていた。
 お母さんは、もう裏口で洗濯をしている。お父さんは、縁側でぽかんとしている。中風といっても、手足や言葉が自由にならない程度の軽いもので、ただひどく泣き上戸だ。
 私は顔を洗い、泣いたらしい眼をよく洗って、さっと髪をなでつけ、お父さんのところへ行ってみた。
「おう、おう、起きたか。」
 私は笑顔をした。
「よかった。風邪が、なおったか。」
 お父さんはもう泣いている。
「淋しかろ。手塚さんが、いってしまった。がまんしな。」
 お父さんて、何を言うんだろう。お父さんこそ、むかしは、工場の庶務課で、手塚さんの父親と同僚だったし、手塚さんを好きだったんじゃないか。
「わたしじゃないわ。お父さんが淋しいんでしょう。」
 お父さんは頷いて、鼻をすすった。
「姉さんも、きっと淋しいわ。」と私は言ってみた。
 お父さんはまた頷いて、しくしく泣きだした。何を考えてるのか、ちっとも分らない。嬉しくて泣くのか、悲しくて泣くのか、それさえも分らない。
 横手のかなたに見える銀杏樹には、雀の声がもうしなかった。一群れずつ、ぱっぱっと四散して、どこかへ行ってしまったのであろう。
「あら、もう雀がいなくなったわ。すっかり明るくなったから、どこかへ出かけてしまった。」
 黙っているのが辛くて、分りきったことを言ったが、そこで、私は真面目になった。
「お父さん、あの銀杏樹の雀ね、うるさいの、それとも楽しいの、どちらなの。雀がすっかりいなくなった方が、およろしいの、それとも、たくさんいた方が、およろしいの。」
「ほう、雀ね。好きかい。」
「好きよ。うるさい時もあるけれど。」
「そうだ、そうだ。」
 お父さんは一つ大きく息をしたが、雀のことは要領を得ず、きょとんとしている。私は追求した。
「秋になって、銀杏の葉が散ってしまったら、雀はどうするんでしょうね。」
「同じだよ。」
「やはりあすこに住むのかしら。」
「住むね。」
「そんなら、わたしたち人間も、雀みたいだといいわね。空襲で家が焼けたって、焼け跡に住めばいいし、毎日あくせく働かなくてもいいし、一日中、ピイチクピイチク、鳴いておればいいし、わたし胸が張り裂けるほど鳴いてやるわ。」
 半ば自分の気持ちをこめ、半ばお父さんを慰めるつもりで、言ってみたんだけれど、お父さんはもう鼻をつまらしていた。
「わたしが、働けないからね。お前たちにも、苦労をかけて、済まん。」
 言ってるうちに、お父さんはもうしくしく泣きだしてしまった。雀のことなんか、お父さんにはどうでもいいんだ。ただ人間のこととなると、すぐに泣きだしてしまうのだ。私もふいに、涙ぐましくなった。
「大丈夫よ、お父さん。働くのは嬉しいことだわ。……あ、お母さんはお洗濯かしら。」
 私は立ち上って、茶の間の方へ逃げて行った。もし涙を見せようものなら、お父さんは声をあげて泣きだすにきまっているのだ。
 私は茶の間で、ちょっとお茶をのんだが、食事はやめた。食べたくなかった。お母さんの方へは行かずに、表へ出た。散歩するというわけでもなく、行くところもないので、裏の空地へ行ってみた。あのいやな醜い桜の木がある。通りすぎて、お寺のなかにはいっていった。銀杏樹がすくすくと茂りそ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング