小さき花にも
豊島与志雄
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すぐ近くの、お寺の庭に、四五本の大きな銀杏樹がそびえ立っている。そばへ行って調べてみると、三本で、それが見ようによって、四本にも五本にも見える。こんもり茂っているのだ。その樹に、雀がたくさん巣くっている。朝早くから起きて、ピイチク、チュクチュク、ピイチク、チュクチュク、騒がしいったらない。朝日の光りがさしてくると、ぱっぱっと、一群れずつ飛び立ち、四散して、どこかへ行ってしまう。そして夕方また帰ってくる。何をしているのか、ピイチク、チュクチュク、ピイチク、チュクチュク、騒ぎまわって、薄暗くなるとひっそりしてしまう。
御近所で、たいへん迷惑してる家もある。私の家では、却ってそれを利用している。朝は眼覚時計の代りとなるし、夕方は終業の鐘の代りとなる。
お父さんが、中風でぶらぶらしていらっしゃるものだから、皆で働いた。御仕立物の小さな看板を出して、お母さんは和裁の針仕事、姉さんは洋裁のミシン。私は外に勤めに出た。二階は間貸しをしている。それでどうにか暮しを立てた。お母さんはもともと体が弱いたちで、お父さんの病気のこともあって、夜分は仕事をなさらない。しぜん、雀の鳴き声で仕事をやめ、おそい夕御飯となる。その代り、朝は早く、雀の鳴き声といっしょに起き上ることとなる。
その、銀杏樹の雀の群れには、親雀もおれば、今年生れの小雀もいる。みんないっしょになって、ピイチク、チュクチュク、ピイチク、チュクチュク。うるさいな、と私は思ったこともあるけれど……おう、なにがうるさいものか。もっと鳴け、もっと鳴け。胸いっぱいに、声いっぱいに、もっと鳴け。よたよた飛んでる遅生れの小雀も、精いっぱいにもっと鳴け。私だって、もし雀だったら……。
今は黙っているけれど、センチになってるんじゃない。腹立たしいのだ。怒っているんだ。そしてどうやら、悲しいのだ。
手塚さんが郷里へ立つ日だった。朝早くの汽車だから、雀よりも早く起き上った。お母さんと姉さんは、手塚さんの幾食分かのお弁当を拵えている。私は二階へ行ってみた。
手塚さんがなんだかお気の毒で、お可哀そうで、と言っては生意気のようだけれど、どうしていらっしゃるかしらと思ったのだ。どの程度か分らないが、胸の御病気で、それに胆嚢もお悪いとかで、半年ばかり、瀬戸内海に面した郷里へ帰って、療養してくるとのこと。前夜は私、へんなことで帰りが遅くなったが、手塚さんは少しお酒を飲んだとか、ぽーっと頬を赤くしていた。それだけだった。それでいいのかしら。手塚さんとお姉さんは、愛し合っているのだ。そしてこれから半年ばかり別れねばならないのだ。それなのに、何事もなかった。いつもの通りだった。手塚さんが茶の間で話しこんでるだけだった。それきりで、明朝は早く起きなければならないからと、みんな早めに寝た。その、何事もなかったということが、朝になってから、却って私の気にかかった。
二階は、もう蚊帳も布団も片付けられているのに、電燈がついていなかった。おや、誰もいないところに踏み込んだ気持ち……私は立ちすくんだ。けれどすぐに眼は馴れてきた。東の空の曙光を受けてぼーっと明るかったのだ。植木鉢が三つ四つ並んでる出張り框に腰掛けて、手塚さんは私の方をじっと見ていた。へんに工合がわるくて、私は言葉もなく、微笑も出来なかった。
「こんなに早く、あなたも起きたんですか。」
手塚さんはいつから起きてるのかしら。
「なかなか夜が明けませんね。まだ星が光っていますよ。」
そして手塚さんが、向うむいて空を見上げたので、私はほっとして、その側までいった。大気が白んでるだけで、中天はまだ薄暗く見え、星が幾つか、妙に近々と浮き出して閃めいていた。
そして暫く黙っていたが、突然だった。
「喜久子さん。」と手塚さんは私の名を呼んだ。
私は振り向いたが、手塚さんは首垂れて眼を伏せていた。
「喜久子さん。僕は黙っていようと思ったんですが、やはり、打明けましょう。郷里へ帰って、身体がなおったら、また出てくるつもりですが、それもいつのことやら分らないので、あなたにだけ、この心の中を打ち明けておきたくなりました。どう思われようと、ただ打ち明けておくだけで、僕の気持ちはさっぱりします。実は、僕はあなたの方を愛していたんです。ほんとに、あなたの方を愛していたんです。今でも、あなただけを愛しているんです。こう言っても、あなたの愛情を求めるつもりではありません。ただ、知っておいて頂きたいんです。はじめからあなたを愛していたこと、今もあなたを愛していること、これからもあなたを愛し続けること。それだけを知っていて下さい。分りますね。喜久子さん、分ってくれますね。」
私は呆然とした。ばかのような気持ちになった。それから急に、血がかっと頬にのぼるのを覚えた。同時に、恥ずかしいのか情けないのか分らない思いで、唇をかみしめた。気がついてみると、片手を手塚さんの両手で握られていた。身動きが出来なかった。何かで身体を縛られたようだった。ふいに、手塚さんの汗ばんだような生温い掌を感じて身体の縛めが解けた。私は手を引っこめた。二三歩しざった。
手塚さんは、膝頭に肱をつき、両手を額にあてて、顔を伏せている。
私は階下へおりて行った。口惜しさが胸にこみあげてきた。何か一言、言ってやりたかったのだ。どんな一言か、それは考えても分らないが、どんなことでもいい、言ってやりたかったのだ。なぜ黙っておりて来たのだろう。私はむしゃくしゃした気持ちになった。汚らわしかった。手を洗った。外に出た。
冷やかな外気を深呼吸していると……突然、あれがまた、眼の中に蘇ってきた。
桜の古木がそこにあったのが、いけない。桜の古い幹は、どうしてあんなに醜いのだろう。若木は艶やかだが、古い幹となると、かさかさで節くれだち、垢が鱗のようにつもってるとも言えるし、皮膚病のかさぶただらけとも言えるし、見られたざまではない。散りやすい優しい花がその枝に群れ咲くのが、ふしぎに思える。
裏口の横手のあらい竹垣の外が、建物疎開跡の空地になっていて、その隅っこに、桜の古木がある。たいへん古い木とみえて、上の方は枯れ朽ち、横枝を少しく茂らしている。その古木のそばに、私はあれを見てしまったのだ。ちょっとした洗濯物を干し忘れてる気がして、夜中に雨でも降るといけないと思い、取り込みにいった。おぼろな月明りだった。洗濯物は見当らなかった。そんな筈はないと思いながら、しばらく貯んでいると、竹垣の彼方の桜の木のところに、何か眼につくものがある。気味わるかったが、竹垣からのぞいてみた。ぞっと背筋がつめたくなった。
月の光りがささない桜の木影に、その幹によりかかるようにして、ぶら下っている。白い単衣のひとだ。私は息をのんで、走り去ろうとしたが、次の瞬間、見違いだと分った。ぶら下ってるのではなく、二人抱き合って立っているのだ。でも、一人は後ろから首を宙に吊されてるように頭をがくりと垂れ、一人は前から首を宙に吊されてるように頭をがくりと上げ、そしてキスをしていた。背丈がちがうのだ。やがて、二人は離れて、月の光りの中に出て来た。それが、手塚さんと姉さんだ。
私は恥ずかしかった。キスそのことではない。キスなどは映画でいくらも見ている。恥ずかしかったのは、手塚さんと姉さんとのキスが、醜くてグロテスクだったこと。いくら背丈がちがうからといって、首縊りみたいな真似をしなくてもよさそうなものだ。そしてあんなところで、醜い桜の木のそばなんかで、しなくてもよさそうなものだ。恋人同士のキスにある筈の、清らかさ香り高さなぞ、みじんもなかった。
そして今、手塚さんは、なんということを私に言ったか。私の方を愛していたと。おう、私の方をだって。そんなことがどうして言えるのだろう。そして、私の愛情を求めるつもりではないと言いながら、私の手を両手に握りしめた。汚らわしい。そして、分りますね、分ってくれますねだと。いったい、何を分って貰いたいのだろう。然し、私にも少し理解しかけたことがある。
手塚さんは、郷里に帰っても、私のとこの二階の室は、やはり借りておいて、荷物はそっくり置いてゆくとのこと。いつ戻ってくるか分らないと言いながら、予定通りに半年ばかりで戻ってくるつもりなのだろう。そしてその間、私の心を繋ぎとめておきたいのだ。女を引きつけるには、好意にせよ、敵意にせよ、とにかく何等かの関心をこちらに持たせることが肝要で、無関心の状態に置いてはいけないと、何かに書いてあった。愛情でなくば、むしろ憎悪を、女に懐かせることが肝要だと。手塚さんの言葉は、そのどちらかをどうぞ、というような調子だった。姉さんには時折縁談があり、不在中にどんなことになるか分らないものだから、万一の場合のため、私の心を惹きつけておきたいのだ。いつも独りでは淋しいのだ。戦争のために心情は荒れてしまっておるし、工場に勤めて製図ばかりやり、生活に潤いがないからだろう。
こんなことを考えるのは、私が冷酷なからであろうか。姉さんはたぶん、私のような考え方はしないに違いない。姉さんは戦争未亡人なのだ。結婚生活は短く、御主人の戦死も公報が来たし、終戦後、実家に戻って来ている。再婚の話も時折ある。その縁談のことなど、手塚さんへどういう風に話しているのかしら。そして手塚さんはどういう風に答えているのかしら。二人は結婚するつもりかしら。手塚さんの病気が故障となってるのかしら。そんなことを、私は考えてみたくないのだ。首縊りのキス、あれだけでもうたくさん。二人の間には肉体の関係まであることを、私はぼんやり知っているが、それも首縊りの必死のキス同然、グロテスクなものに違いない。真の恋愛の清らかさや香り高さは、どこにもあるまい。なぜなら、はじめから手塚さんは童貞でなかったし、姉さんは処女でなかった。
私は処女なのだ。ヴァージニティーの矜りを持っているのだ。
あの前の日も、ばかなことがあった。
私が勤めているのは、或る出版社で、おもに私は校正をやっている。たいていの人は校正の仕事を厭うのだが、私は好きだ。印刷されてる文字を一つ一つ辿って、誤字を直してゆくのは、のんびりしていてよい。文字にはそれぞれ表情があって、怒ったり悲しんだり笑ったりしている。思ったほど単調な仕事じゃない。その代り、私の校正は甚だゆっくりだし、きたない原稿と照合することを怠って、意味さえ通ずれば一句ぐらい落すことも平気だから、編輯の人からよく叱られる。のろまで無能だということになっている。
そののろまで無能な私も、時には、雑誌の方の原稿の催促にやらされる。この方は、校正よりもっと責任が軽い。編輯者が約束してきた原稿を、期日間際になって、注意喚起の意味で催促に行くのだから、ただ機械的な挨拶ですむ。
そういう用を、午後に言いつかった。帰りは会社に寄らずに真直に帰宅してよいのだ。
午後の陽がだいぶ傾いた頃、その作家のところへ行った。期日などは少しも守らないことで有名な先生だ。そんな先生ほど私にとっては却って楽なのである。
先生は不在だった。近くの飲み屋に行ってるとのこと。そちらへ伺った。
先生は酒を飲んでいた。三人ほどお友達といっしょだった。開け放しのとっつきの室だ。私が名刺を出して、原稿のことを話すのを、先生は黙って開いていたが、突然言った。
「ふしぎだ。君はよく似ている。姉さんか妹さんか、雑誌社に勤めてるひとがいるだろう。いや、ふたごかな。そっくりだよ。」
私が先生のところへ来たのは二度目である。初めの時は、先生はそんなことを言わなかった。
「ふたごでない、姉さんも妹さんも勤めていないと、ほんとかね。だが実によく似てる。そっくりだ。誰が見たって間違える。」
私はへんな気
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