らも、それは無限に遠く、無限に高く、無限に深く、伸長され得るのだ。生意気でもなんでもない。これが童貞処女の肉体の矜りではあるまいか。私はこの矜りによって、手塚さんへ、あの作家先生へ、その他のあらゆる饐えた肉体へ、抗議を提出しよう。
東の空は、見る見るうちに明るくなっていった。その明るみが中天に差して、星の光りが消えてゆき、却って大気のなかに薄闇が淀んでくる。お寺の銀杏樹がくっきりと姿を現わし、その重畳した緑葉の一枚一枚が、浮き上って、その中に、雀がもう囀りだした。声は声を呼んで、チイチク、チュクチュク、チイチク、チュクチュク、潮のように高まってくる。もっと鳴け、もっと鳴け。雀、雀、お前たちも童貞処女ではないか。胸の張り裂けるほど……。
ああ、私は思念の息の根をとめた。雀が、あの鳴き騒いでる雀のすべてが、なんで童貞処女なものか。童貞処女は今年生れの小雀だけだ。それと親雀と、どうして区別出来よう。肉体、肉体そのものの心だ。
大空に光りが、日の出の紅い光りではなく、盲いたようなただ白い光りが、いつしか漲って、その反映で物影が消えていった。私は眩暈に似たものを感じた。家にはいって、頭痛がすると母に言った。昨晩遅くなって、風邪をひいたのかも知れない、という口実で、布団にもぐりこんでしまった。手塚さんを駅まで見送りに行くことになっていたが、誰が行くものか。姉さんだけ行くがいい。首縊りのキスのお伴なんか御免だ。
私は夢をみてるような気持ちで、それからほんとにうとうと眠ったらしい。眼がさめると、涙が出ていた。
お母さんは、もう裏口で洗濯をしている。お父さんは、縁側でぽかんとしている。中風といっても、手足や言葉が自由にならない程度の軽いもので、ただひどく泣き上戸だ。
私は顔を洗い、泣いたらしい眼をよく洗って、さっと髪をなでつけ、お父さんのところへ行ってみた。
「おう、おう、起きたか。」
私は笑顔をした。
「よかった。風邪が、なおったか。」
お父さんはもう泣いている。
「淋しかろ。手塚さんが、いってしまった。がまんしな。」
お父さんて、何を言うんだろう。お父さんこそ、むかしは、工場の庶務課で、手塚さんの父親と同僚だったし、手塚さんを好きだったんじゃないか。
「わたしじゃないわ。お父さんが淋しいんでしょう。」
お父さんは頷いて、鼻をすすった。
「姉さんも、きっと淋しいわ。」と私は言ってみた。
お父さんはまた頷いて、しくしく泣きだした。何を考えてるのか、ちっとも分らない。嬉しくて泣くのか、悲しくて泣くのか、それさえも分らない。
横手のかなたに見える銀杏樹には、雀の声がもうしなかった。一群れずつ、ぱっぱっと四散して、どこかへ行ってしまったのであろう。
「あら、もう雀がいなくなったわ。すっかり明るくなったから、どこかへ出かけてしまった。」
黙っているのが辛くて、分りきったことを言ったが、そこで、私は真面目になった。
「お父さん、あの銀杏樹の雀ね、うるさいの、それとも楽しいの、どちらなの。雀がすっかりいなくなった方が、およろしいの、それとも、たくさんいた方が、およろしいの。」
「ほう、雀ね。好きかい。」
「好きよ。うるさい時もあるけれど。」
「そうだ、そうだ。」
お父さんは一つ大きく息をしたが、雀のことは要領を得ず、きょとんとしている。私は追求した。
「秋になって、銀杏の葉が散ってしまったら、雀はどうするんでしょうね。」
「同じだよ。」
「やはりあすこに住むのかしら。」
「住むね。」
「そんなら、わたしたち人間も、雀みたいだといいわね。空襲で家が焼けたって、焼け跡に住めばいいし、毎日あくせく働かなくてもいいし、一日中、ピイチクピイチク、鳴いておればいいし、わたし胸が張り裂けるほど鳴いてやるわ。」
半ば自分の気持ちをこめ、半ばお父さんを慰めるつもりで、言ってみたんだけれど、お父さんはもう鼻をつまらしていた。
「わたしが、働けないからね。お前たちにも、苦労をかけて、済まん。」
言ってるうちに、お父さんはもうしくしく泣きだしてしまった。雀のことなんか、お父さんにはどうでもいいんだ。ただ人間のこととなると、すぐに泣きだしてしまうのだ。私もふいに、涙ぐましくなった。
「大丈夫よ、お父さん。働くのは嬉しいことだわ。……あ、お母さんはお洗濯かしら。」
私は立ち上って、茶の間の方へ逃げて行った。もし涙を見せようものなら、お父さんは声をあげて泣きだすにきまっているのだ。
私は茶の間で、ちょっとお茶をのんだが、食事はやめた。食べたくなかった。お母さんの方へは行かずに、表へ出た。散歩するというわけでもなく、行くところもないので、裏の空地へ行ってみた。あのいやな醜い桜の木がある。通りすぎて、お寺のなかにはいっていった。銀杏樹がすくすくと茂りそ
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング