見当もつかず、呆れて戸惑ってしまった。だが誰も、ふしぎがってる様子はなかった。弘田啓子も、私はすぐにその名前を知ったのだが、また学生上りの若者も、やがて話の元を明かされると、奇遇ねの問答を面白がり、声を揃えて騒ぎだし、まけずに祝杯を干した。お銚子が幾本も並んだ。
「小杉さん。」
ぽつねんとしている私へ、弘田啓子は呼びかけた。
「小杉さん、あんたが種をまいたんじゃないの。なにを真面目くさってるのよ。さあ、祝杯、祝杯。」
私は仕方なしに、また、祝杯を挙げた。
「その調子。今晩はみんな酔っ払うのよ。なに、大丈夫。ここで、ざこ寝をしよう。」
いつのまにか、電燈がついていた。私は悲しくなった。もう帰ろうと思い、先生に原稿のことを改めて頼んだ。
「分ってる、分ってる。」と弘田啓子が手を振った。
「書くよ、書くよ、必ず書くよ。」と先生も調子を合せた。
「君は似てるね。」
皆があとを続けてるうち、どうしたのか、先生は黙りこんでしまった。祝杯がすんでから、先生は言った。
「ちょっと待ってろよ。僕一人でやる。……君は似てるね。誰にだい。犬にさ。俺が犬だ。それは奇遇だ。」
先生は拳固で食卓を叩いて調子を取った。
「犬だ、犬だ。みんな犬ばかりだ。」
私は眼を見張った。空気が変ってきたのだ。
「犬でないという自信のある者は、手を挙げてみろ。俺だって犬だ。だが、この犬を、石で打ち得る者はあるめえ。みんな犬さ。習慣の虜さ。いつも同じ道ばかり歩いていやがる。いつも同じ所に小便をひっかけて、それをかぎながら、同じ道ばかり歩いていやがる。自分の小便の匂いがねえと、心細えんだ。酒のねえ一日は、心細えんだ。毎日毎日、酒を飲んでばかりいやがる。だが、原稿は書くよ。おい、小杉君、小杉さん、原稿は書くぜ。書かなけりゃあ、心細えんだ。何か書かなけりゃあ、淋しくてやりきれねえ。だから、安心しろよ。きっと書く。安心して、酔っ払っちまえ。酔っ払って、泊っていけよ。今夜はざこ寝だ。ええと、小杉……きくちゃん。君は似てるね。誰にだい。わんわんさ。俺がわんわんだ。それは奇遇だ。」
祝杯を挙げると、飲み干したはずみに、先生は倒れかかった。側の者がそれを支えた。先生は坐りなおして、また祝杯を挙げた。
「あなた似てるわ。」
弘田啓子が音頭を取った。
私はそっと座をすべって、靴をはき、土間に立った。ふしぎなことに、誰も私を引き留めようとする者がなかった。酔って表の空気を吸いに出る、そんな風に思われたのかも知れない。それとも、もう私のことなど、面白くないので誰も眼にとめないのかも知れない。私はすっと外へ出た。
もう暮れていた。都心から遠い雑草のある道を、とぼとぼ歩いていると、眼に涙が出てきた。なんというでたらめな、そして悲しい人たちだろう。先生はじめみんなそうだ。スカートの裾にまつわる宵の風には、もう秋の気があった。私は思いに沈んで、涙が眼にいっぱいたまり、ハンケチで拭いた。
ところが、省線電車の駅近く、賑やかな街路の明るい灯を見ると、私はふと、騙されたような気持ちに変った。誰が騙したんでもない。先生やあの人たちが騙したんでもない。ただ私の方から騙されたんだ。つまり、すべてが嘘だったんだ。先生はじめ皆が言ったこと、したこと、すべて嘘だったんだ。それでは真実はどこにあるのだろうか。私の方だけにある。どこにもなく、ただ私の方だけにある。
その思いは、奇異なものだった。私はまだ嘗てそんな思いをしたことがなかった。謂わば、外部の世界がすべて拵え物になって、自分一人が曠野の中に残された感じだ。
それでも、またふしぎなことに、私は淋しくなかった。小さな小さな、光るものが心の中にあって、それが力となり喜びとさえなった。
今にして私ははっきり思い当る。あの人たちすべて、ヴァージニティーを失っているのだ。精神的なことを言うのではない。単に肉体上のことだ。男たちはもう童貞を失っているし、女たちはもう処女を失っている。肉体のことだ。饐えた匂いがしていた。ざこ寝だってなんだって、平気で出来るだろう。
だが私は、私の肉体は、処女の純潔さを保っている。年若い雛妓のそれとは、同じ肉体でも、香気が違うのだ。饐えた匂いなぞ、みじんもありはしない。
私は一種悲壮な気持ちで、おそく家に戻った。手塚さんを加えた貧しい晩餐は、もう終っていた。私はみんなの平凡な世間話を聞きながら、こそこそ食事をすました。それきり何事もなかったのだ。何事かあるだろうと思っていたのは、私の処女の肉体の空想だ。童貞処女を失った肉体にとっては、たいていのことが可能であろう。しかもその可能性は、四方八方に拡がり得るとしても、つまりは浅薄なものに過ぎない。童貞処女の肉体にとっては、可能性は純潔のカテゴリーの中に制限される。制限されなが
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング