彼杉本も、同じ料理を前に、膝を正している。夫人の手で、二人の杯へ、九谷の銚子から、燗のぬるめの白鶴が、代る交る注がれる。その杯と、生物《なまもの》の多い新鮮な料理の箸との、合間合間に、田代さんは、杉本へ言葉をかける。最近の動静……未来の抱負……日常生活……それも、何をしてるか……何をするつもりか……どんな風か……といった調子の軽い問い。杉本は出来るだけ、当らず触らずの返事をする。話が、夭折した杉本の父親のことに及ぶ。豪い男だった、と田代さんは云う。君も父の子だ……と。どうにか生活出来るか……と。酒がうまそうである……。年齢の渋みのかかった艶のいい皮膚、半白の髪、毛の長い眉、底の見透せぬ老成した眼付、意志の頑強そうな口元……。そして、それを包んで、好々爺らしい鷹揚な態度……。酒がうまそうである。が杉本は、酒がうまくない。鼻のつんと高い、怜悧な、勝気な、痩せた夫人から、一挙一動を見て取られる、という意識ばかりではない。話が、杉本の身辺のこと以外に、一歩も出ないのである。学費を無条件で支給してくれたばかりでなく、卒業後のことは全く放任してくれてる。有難い恩人ではあるが……。
 ――俺はただ、
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