多い古い合服が、変に目立っていた――それが、彼自身の意識にもうつって……。
「西瓜で思い出したが、」と杉本の側で声がした、「震災の時、河岸縁を、西瓜を一つ抱えて、一生懸命に走って行く小僧がある……。走っても走っても、どこも火事だ。息が切れて、立止ったとたんに、思いついた。西瓜を割って、中身で喉をうるおして、その皮を頭にかぶって、大河につかった。そして生命を助かったそうだが……。これなんか、恐らく東京中で、一番賢明な奴だったろう。」
「初めは、夢中で抱え出したんだな。とかく、智恵は後から湧くって謎か。」
「後から智恵が湧くどころか、終始一貰、あの時は誰も夢中だった。君なんか、外は歩けなかった組だね。」
 言葉を向けられた、背の高い、大陸的な風采の男は、昂然と笑った。
「ばかな、大手を振って出歩いたさ。そして警戒線にぶつかると、アイウエオやいろははおろか、逆に、すせもひゑしみめゆきさあてえ……。どうだ、云えるか。」
「す……せ……も……。ははは、ばかだなあ。」
「あの時だけは、有吉、君たちの軍服も、感謝の光栄に浴したわけだね。」
「なあに、ただ、辻々に立って……街路樹みたいなものさ。」
 有吉は事もなく云って、微笑していた。
「街路樹よりも、もっと本物らしいのがあった……。」
 先程から、有吉の軍服と旭日章とをぼんやり眺めていた杉本が、ふいに口を開いたのである。皆の視線がその方を向いた。
 ――九月三日の夜……といえば、戒厳令が布かれた直後のことである。流言浮説は深刻の頂上に達していた。自戒団や避難民で街路は湧き立っている。……が、その間に、まだ電燈のともらない裏通りなどに、変に薄暗い、人気の少い穴みたいなところがある。そんなところが最も危険だ。特に、広い墓地を控えた寺の入口など……。その或る寺の入口に、石の仏像が一つあった。すると、三日の夜、誰かが、気転を利かして、在郷軍人の、軍服の上衣と帽子を、その石の像にかぶせた。そして、軍服をきた石の像が、四日をすぎて、五日の朝まで、そのままつっ立っていた……。畑の中の案山子なんかより、もっと有効に……。
「ばかな!」
 有吉が一喝した。
 その時になって、話のおかしな感銘を一同は感じたらしかった。それが、杉本の口を噤ました。
「愚弄するのか……。」
「…………」
 杉本は腑に落ちない顔付で、ぼんやり立上った。その腕を、有吉は掴んだ。
「案山子とは何だ、案山子とは……。」
「然し、街路樹よりも……。」
 杉本は突き飛されたのを感じた。それをふみこたえた瞬間、顔の前に、大きな挙《こぶし》が突出された。
「こい!」
 酔っていた。何のことかよく分らなかった……誰にも。好奇の色を帯びた真剣な眼が、幾つも光った。
 大きな拳が、有吉の鼻の頭をこすって、ぬっと、も一度前に出た――極度の侮蔑で卓子の上に、尖った三角ナイフが光っていた。それを掴んで、杉本の顔に皮肉な笑いが上って、どうだ……といった調子で、つきつけたのが、手首をぐっと引かれた。はずみをくって、よろけながら、握りしめた手先の力が籠って、全身の重みがかかった……。
 杉本は、前のめりに、ぱったりと倒れた。
 瞬間の出来事だった。
 次の瞬間、杉本は飛び起きて、顔色を変えて、震える手にナイフを握りしめていた。その腕が、人の手に押えられた。眼の前に有吉はつっ立って、頬に微笑の影を湛えていた。が、その右の大腿部の、軍服が裂けて、血が……。
「ば、ばかなことを! 気をつけろ!」
 そして彼は、一歩よろめいて、卓子につかまった。顔をしかめた。眼を落して、腿の血を見た。
「出て行け!」
 杉本は、歯をくいしばって、憎悪に燃ゆる眼を、相手の眼に据えた。が有吉の眼は、自若としてそれを迎えた。蔑すんだ色が動いた。
「帰してやれ。」
 命令的な、逆う余地のない語気だった。杉本の腕を捉えてる手は放された。杉本は、ナイフを取落し、首垂れて、歩み去った。
 その時、人々に取囲まれながら、有吉は、急に腿の傷口を押えて、椅子に倒れた……。

     六

 静かな、そよとの風もない、星の光の強い深夜だった。
 杉本は古い洋服のまま、半身を机にもたせて、坐っていた。その額に、今まで見られなかった皺を刻んで……。口のあたりの頬が、かすかに震えていた。
「別れるのは、嫌だというのか。」
「…………」
 無言で、英子は唇をかんでいた。頬の贅肉がいつもよりふくらみ、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]がいつもより尖って、自然の媚と我執との、ちぐはぐな顔付だった。
「僕たちは、互に、奴隷にはならなかった。それが、僕たちの夢の取柄だ。」
「夢……。」
「……じゃあない、といって、生活でも……。」
 皮肉な色が、さっと彼女の眼に浮んだ。
「では、何……何なの?」
「何か……僕にも
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